気分を自我の本質だと考えたらダメだ。気分が自我なら俺は生きていけない。気分は神経反応に過ぎない。気分を言語化したら自己嫌悪と怒りと絶望が自我そのものになってしまう。気分は体調の延長に過ぎず、それを過大視しても疲れるだけだ。
自我=気分の等式は孤独度が高いほど正しくなってしまう。孤独な人間にとって気分が世界のすべだからだ。
馬鹿と気狂いは気分でしか世界を観ない
ラ・ロシュフコーの箴言の中でも有名な一つだ。気分で世界を観てはいけない。気分に自我を操られてはいけない。気分が悪くなるたびに世界を呪詛したり、過去を恨めしく思ったり、誰かを怨嗟したら、人生は狭く苦しくなる一方だ。
気分の奴隷にならないようにするためには「常に気分良くいられるように体調と環境を整える」「気分と自我が直結しないように心を鍛え鎮める訓練をする」「気分の悪化を膨張させない他者との関係を築く」等々の手段がある。手段を労さずに常に気分に負けっぱなしで愚痴ばかりではダメだ。それは馬鹿で気狂いだとラ・ロシュフコーさんは云っている。偉人の云うことは大抵正しい。