原初的な欲動と高次欲求

体調が悪い。メンタルも悪い。

今回は体調の悪さに引きずられてメンタルが悪化している。午前中に根を詰めて働き、多少手間暇かけた昼食のあと、お茶を飲んでまったりしたら、いつもなら細やかな充実感があるのに、心はドンヨリと曇ったままだ。背中限定だった鈍痛が、全身に広がって重たい。脳内も粘土が詰まったように濁っている。瞬間瞬間が不快で辛い。

週三回はフィットネスクラブに通い、糖質を制限し腹7分目、週末には他者とのコミュニケーションを厭わない。と処方箋はわかっている。やれば楽になることがわかっている。その程度は馬齢を重ねたので経験則で知っている。左記の三原則に加え、仕事と学習に目標を設定して前向きに焦らずチクチクやっていけば、日々がそれなりに充実することもわかっている。

わかっているけれど、それを行動に移して結果生じる成果の受益者が、結局自分だという当たり前に絶望してしまう。職務における実務だけは可能な限りキッチリできるのは、仕事の成果は自分だけのものに留まらないからだ。だからこそ「仕事」なのだが。

毎回おなじことを書いているけれども「自分自身を目的にすることの難しさ・虚しさ」は拭いがたい。このことが身に沁みるようになったのは5年ぐらい前からだ。それ以前はメンタルの不安定さが酷かったので、それを飼い慣らす以外に余力がなかった。少しメンタルを制御できるようになると、今まで雑に扱っていた諸事全般のツケが一気に噴き出してきた感がある。肉体の加齢による軋み・他者とのコミュニケーションのないがしろにしてきた結果としての孤独等の問題が山積みだ。

「とりあえず苦しい状態から楽になりたい」という原初的な欲動と、「人として充実した生を全うしたい」という少し高次な欲求は、重なっているようで実はまったくベツモノだ。このことにもっと早く気づきたかった。後者にアプローチするためのエネルギーが決定的に足りない。具体的にいうと「認められたい」は無くなって、「蔑ろにされなければそれで良い」レベルにまで堕ちてしまった。もう這い上がれないのかもしれない。

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Graham Coxon

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もちろんこんな色男ではないが、若いときの自分のセルフイメージに近いというだけて゛ずっと好感度が高いミュージシャンだ。同い年だし。出す音の質感も好きだ。

Golden D

Golden D

活力が乏しいときの最善手

活力がない。

もともとない。さらに減った。枯渇したといってもよい。

暑くなったり、寒くなったり、晴れたり、曇ったり、湿気たり、乾いたり、天候が定まらないのも理由だ。おなじことは書きたくないので省くが、それ以外の要因との合わせ技で、無気力状態が続いている。

こういうときは「活力溢れる人と交流する」これが一番効く。しかし、周りに元気な人がいない。探してもいない。次の手段は「強制的に体を動かし汗をかく」これが良いが、半端にフィットネスクラブを始めたので、小一時間ぐらいの運動では疲れるだけで、リフレッシュしにくくなった。とはいえ今思いつく手段はこれしかないので、おもい腰を上げ昨晩は(かなり無理矢理)汗をかいた。・・・逆効果だった。今日はさらに気分が悪い。

「社会活動参加作戦」を考えている。しかし、なかなか良い入り口が見つからない。妙に政治的な、もしくは宗教的な、もしくは定年退職後の互助会的な活動しか引っかからない。この方面で顔が広い尊敬しているヨガ師匠に聞くのが確かだろうが、師匠の紹介となると、肌に合わなくても簡単には辞められそうもなく躊躇う。我が儘だ、我ながら。

仕事の成果にレバレッジがかかり、頑張れば収入がグワンと伸びるのであれば、意欲を刺激することもできるだろうが、仕組み的に正比例でしか収入が増えないので、意欲が湧かない。これも我が儘にすぎない(わかっている)

活力が乏しいときの最善手は何だろうか。

  • より気が塞がないように、とりあえず身辺を清潔にする。
  • 無理に自分を元気づけないで、ひたすらボンヤリする。
  • 観ても・読んでも・聴いてもつまらないなら、インプットを意図的に絶つ。
  • 断食
  • マインドフルネスのまねごと

このあたりだろうか

社会学が未だによくわからない

某大学の社会学部卒だ。卒業しながら、未だに社会学に対する違和感と不信感が拭えない。当時(今もかもしれない)社会学の学問的存在意義に関する説明で頻繁に参照されていたのが「デュルケームの自殺論」だ。個々の主観を超えて統計的に社会を俯瞰すれば「客観的な真理が明らかになる」というのが、社会学の立脚点だとされてきた。

社会学者、査読論文出してなくても教授になれるし、招待論文(依頼論文のこと?)があれば査読論文無しでも良いらしい問題(いろいろ追記有り) - Togetter

統計を恣意的に扱うことの問題点については、さんざん議論されてきた。にもかかわらず、問題の本質はなんら解決されずに、社会学という学問分野で飯を食う大学教授・助教授・教員だけが増える結果になった。

僕が教えを請うた教授や講義内容に感心した教授・助教授たち、あれから30年近く経っても彼らの社会的な知名度は上がらず、商業出版さえできずに馬齢を重ねた。社会学部という小さなコミュニティで、学問ごっこをやっているとしかみえない状況で、ここまで来てしまった。お世話になっていながら、こんなこというのも何だが、あんなのが学部長って冗談かなともおもう。

結局このフィールドから出た最大のヒーローが、宮台真司だというところに、社会学の限界が顕れている。さすがに宮台教授の知見には感服するところも多いけれども、何だかなぁと感じるところも同じぐらいある。

個々人の主観とは一歩距離を置いて、社会を概観するのが、社会学の本質だったはずだ。しかし、今キズナアイで盛り上がっているように、社会学教授を名乗りながら、主観剥き出しの権威主義者が偉そうにしている時点で、学問としては既に終わっている。

自殺論 (中公文庫)

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反社会学講座 (ちくま文庫)

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