知識の習得度は手段としての必要性に比例する

「学ばなければ・・」とおもいつつ長年学習できないことは誰にでもある。私にも山のようにある。それが日々プレッシャーになって不必要な精神力を蕩尽している。

一方、全然それを欲望していないのに、知識とスキルが加速度的に増えることがある。なぜだろうかと考えた。

知識の習得度は手段としての必要性に比例する

手段としての知識を欲望すると学べない。目的に達するために手段を為すことが不可避になった場合に結果的に知識が増える。そんなことを昨日少し複雑な棚を組み立て完成したときに、ふと思い至った。

例えば競馬だと最初の動機は「ギャンブルとしての一攫千金」だろう。しかし無作為に馬券を買っても当然当たらない。そこで血統について学んだり、コースについて、騎手について、厩舎について、馬体について、ラップについてと知識がドンドン増える。あくまでもギャンブルとしての一攫千金を目指しての手段としてだ。場末の飲み屋で小汚いオッサンが赤ペン片手に競馬新聞に印をつけている。過去の走破タイムや、コースや距離との相性に細かく目配りしている。目的が明確なら手段に関する知識は努力しなくても手に入るのだ。

手段が目的化することを趣味という

これは長岡鉄男氏の名言として有名だ。馬券を当てるための手段だったはずの血統研究自体が目的になってしまう。これが血統趣味だ。血統に関する知識を欲望すると手段として、馬産に関する本を読破したり、遺伝の法則に詳しくなったりする。

自作PC・動画撮影と編集

最近の趣味だ。これも自作そのものを最初から欲望したわけではない。仕事道具でもあるPCのスペックアップのための手段として、試行錯誤しているうちに、その試行錯誤そのものが目的になった。動画撮影と編集も「好きなバンドの動画を繰り返し楽しみたい」が出発点だ。撮影も編集も手段に過ぎなかった。しかし、今では撮影そのもの、編集そのものを楽しんでいる。

というわけで

長年プレッシャーになっている「仕事関連の周辺スキル」「Webマーケティングのスキル」もそれ自体を目的にしないで、それらのスキルアップの先に得られる結果について強く欲望したり、知識自体を目的にしないで、結果としての成果物を目的にすれば、長年悩んでいたボトルネックが解消できるのでは、そう考えている。

先日の編集動画