天空団地_404

You play with the cards you’re dealt… Whatever that means.

苦悩は物理だけで十分

肩の複雑骨折で痛い目に遭った。怪我の功名か、ボンヤリと考えていた人生に対する哲学の一つが固まった気がする。

人生の苦悩は肉体に由来する物理苦痛だけで十分

文章にするとこうなる。怪我以外にも、病苦や老いから生じる衰えに伴う苦痛。諸々の不摂生から生じる肉体の軋み。これだけでも十二分に、人生は苦痛に満ちている。

「思考・記憶を起因とする負の感情に伴う苦悩」これを過大視して、物理的存在ゆえの苦しみに拍車をかけるのは、マゾヒスティックではないか。乱暴に纏めるとこういう諦観、逆の側面からいうと楽観が必要ではないか、そんな確信だ。

「思考・記憶を起因とする負の感情に伴う苦しみ」← これらは心理学者のアドラーにいわせると概ね「対人関係に起因する」ものばかりだ。くわえるなら、思考するがゆえの「未来に対する不安(健康に関する心配・経済的困窮に関する心配)」で苦悩のピースはだいたい埋まってしまう。

いいかえると、思考とそこから発生する負の感情は「悪いあの人(人たち)、可哀想な私」「ダメな私、可哀想な私」がすべてだといっていい。アドラーのいう人間関係には「自己」も内包される。理性からすれば物理的存在である他者と同様に、自己も物理的存在ゆえに他者ということができる。外部の他者と自我と一体化した自分自身という他者の境目は、漠然と我々が思っている以上に曖昧だ。負の感情が結局のところ外部の他者を志向しているのか、自分の内面を糾弾しているのか、厳密には誰もが境界線を引くことが原理的にできない。むしろ、それらの境界の混濁こそが思考・感情が生む苦悩の本質ではないか?

劣等感と他者に対する負の感情は表裏一体だ。自己肯定感が極めて高い人は自分の内面を守るために怒る必要がないし、他者を守りたいゆえの怒りは正義と見分けがつかないことも多い。逆に、正義の名の下に、実は自分の内面を守りたいだけの鬱陶しい人、世の中に瀰漫している。

負の思考・負の感情という苦悩は、必ず老いて病んで死んでいく人間にとって、真に必要なのだろうか? 自分の脆い内面を守りたいだけなのに、義憤にとらわれているような錯覚はしていないだろうか。それらは無駄な苦悩ではないか、肉体を離れたところにある自我と誤認する実体のない脳内に漂う瘴気のような何かに、人生を穢されてはいないだろうか?