自己責任という言葉は成り立ちからして嫌いだ。とはいえパワーワードとして頻繁に使われるので、人生における自己責任の範囲について考えてみた。
この言葉を嫌いなのは「人生における幸不幸の源泉は個人にある」という必勝劣敗の新自由主義の思想を色濃く反映したものだからだ。経済的成功者の自己肯定において語られる言葉であるにもかかわらず、なぜか貧者もこの単語を使用して他者をdisるのが特にネットの匿名論壇では主流だ。
新自由主義思想は資本主義のクローバリズムを後押しするバックボーンとして安易に使われてきた。結果、世界中で格差が広がりポピュリズムを許容する社会風潮が瀰漫している。自己責任というパワーワードを濫用する以上、新自由主義の信奉者だと思われても仕方がない。新自由主義・グローバリズムの被害者である負け組がこの単語を好むのは、自らを負け組と認めたくないルサンチマンが根底にある。価値観の転倒というフレームワークを使わないと、この捻れを矛盾なく説明することは難しい。
不幸の原因を個人にすべて帰さないで、ある程度は社会全体でケアしましょうというのが、近代民主国家の原則だ。ケアの程度について社会的議論があること自体は健全だ。議論の過激化に社会の病巣が集約されている感はあるけれども。
個人が人生において負うべき責任の範囲について、確たる社会的コンセンサスは確立していない。責任の線引きを社会的に決めるのは建前上は政治家であり、代議制民主主義の存在意義もまさにそこにある。
個人が必ず負うべき責任とは
社会と個人が担うべき責任範囲の線引きの困難さが社会混迷の大きな病巣だ。私も人生で背負ってしまった負要素の所在責任を、自身がどこまで負うべきなのかについて散々考えた。
理路を飛ばして結論を書くと「いかなる社会的背景や人間関係・過去のトラウマを背負っていても、過去の自分(10年前・5年前・1年前・半年前・一ヶ月前・昨日)よりも今現在をよりよくしようとする自助努力を怠った結果生じた現状は甘受すべき」だ。どのような負の遺産を背負っていても、時間軸で過去と比較して問題が改善されていないのであれば、それはいわゆる”自己責任”だ。能力の及ぶ範囲で自助努力をするのは社会的動物である人類の「最低限」だとおもう。5年前より今の方が不幸だからといって、10年前の加害者を責めても、5年分の不幸の蓄積は個人が負わなくてはならない。それを理不尽だという輩は、5年後に更に5年分の不幸を蓄積しているだろう。まさに自業自得だ。そして社会・他者には、それを考慮する理由も余裕もない。