天空団地_404

You play with the cards you’re dealt… Whatever that means.

「公正世界仮説」と「不公正世界仮説」

https://dot.asahi.com/articles/-/213287?page=2

僕が一番に浮かぶのは、「公正世界仮説」という考え方です。
割と知られている社会心理学用語ですが、ご存知ですか?
ざっくりと説明すれば、「この世界は公正である」という思い込みです。

世界は公正・公平だから、良いことをした人には良いことがある、悪いことをした人には悪いことがある、それがこの世界のルールだ、という信念です。 子供の頃に接するおとぎ話や童話は、ほとんどが「公正世界仮説」を私達に根付かせる物語です。悪い奴はこらしめられ、善人は最後に救われて、がんばれば願いはかなう。私達の心には、「世界は公正・公平である」という思い込みがしっかりと根付いているのです。「公正世界仮説」を強く信じている人が「世界は公正じゃない」という現実に直面した時にどう感じると思いますか?その現実を受け入れてしまうと、「世界は公正じゃない」という事実を認めてしまうことになります。そうすると、その人の「公正世界仮説」は崩れます。

しかし、「公正世界仮説」を信じることは、前向きに生きることです。私達は「公正世界仮説」によって、努力すればうまくいく、がんばれば報われる、良い行いには良い結果がついてくると信じられるからこそ、毎日、歯を食いしばって前向きに生きていけるのです。

だって、「努力しても結果は分からない」とか「良い行いをしても悪い結果になることもある」なんて思っていたら、なかなか、がんばれません。
「公正世界仮説」を信じることは、毎日を安心して生きる方法なのです。
ですから、多くの人は自分の信じているを守ろうとします。

思うに私の倫理観も「公正世界仮説」をベースにしているのは認めざるを得ない。ただずっとシニカルで、「世界はとても公正だとはいえないけど、それでも手持ちの能力で折り合いをつけて、得られるものの可能性を無くす愚だけは避けた方が楽だ」という折衷案みたいなものにおちついている。

それでもこの仮説を信仰した方が良いとは思う。反転した「不公正世界仮説」が正しいなら、生きる理由はなく、最適解は直ぐに首を吊るのが正しくなってしまう。それに「基本的に世界は公正だ」という考えがベースにある人と、その逆の人を想起したら、どちらを友人にしたいかと問われれば、答えはいうまでもない。

ただリンク先にもあるように、「公正世界仮説」を仮説に過ぎないと一歩引いて謙虚にならずに真理だと思い込んでしまうと、どうしても「被害者にも一定の非があるに違いない」という、特に近年のネット社会に瀰漫する「間違った義憤」の発生源になってしまう。仮説を真理と思い込むとベクトルが真逆でも、どちらも社会悪になる(極左と極右とか)

しかし、仮説が二つあるなら、どちらを採用する方が、自分自身が楽になれるか、世の中の善の総量が増えるかを考えて、副作用に自覚しながら「公正世界仮説」を選ぶべきだ。弊害があるにしても、「不公正世界仮説」がマジョリティの社会よりはずっとマシだ。

雑な考察ですいません(>_<)


AI お題:世界の善意に感謝を捧げる少年少女達。

塵も積もればを今さらながらいろいろ始める。

加齢を重ねると時の流れが速くなるとは誰もが言うことです。私も近年それを感じるばかり。ただいくら速くなっても上限があるだろうと思っていた。それが全然そうではなかった。特に最近は「気づくと金曜の午後」という感想を毎週のようにチャットで漏らしている。

日々が高速で流れていくなら、それを生かして「塵も積もれば山となる」をたくさん習慣づけたら、その効能を早めに実感できるのでは? こうポジティヴシンキングしてみた。

実際、昨年から「暇と退屈を感じたらスクワット10回」は見事に身について、落ちる一方だった体力の低下が心なしか止まった気がする。ついでに、これもどこかのブログ情報で、「ピョンピョンとジャンプする運動はコスパが良い体力維持法」もセットでやるようになった。効果の程はよくわからないけれど、単純にオッサンが一人で跳ねているのって微笑ましいですよね🤣

こんな感じで心理的プレッシャーのない塵も積もれば山となる習慣を増やしたい

こう考えたわけです。ボンヤリとネットを眺めていた時間を積み重ねることによって、変化が期待できる何かに割り振る。これって単純に楽しそうです。それで色々と考えてみた(今ね)

  • 座ったまま手の届くところ場所の3分間整理

これは誰かの随筆で読んだ。汚部屋作家だけれども、仕事の場である机の周辺だけは綺麗な文豪の習慣だった。常に視界に入っている箇所を整理するって、脳の中身を整理するのと同じで、メンタルにも良さそうだ。現代なら、PCのデスクトップ画面の整理も含めたいところ。

  • 室内の5分間掃除・整理

上記の発展形。どうしても「やる以上、綺麗にしなければ意味がない」って思いがち。でも5分アクションすれば、その時間分だけは何パーセントかは、居住空間が美しくなる。一日5分でも仕事日で掛けると週30分になる。週一で30分掃除するよりおそらく効果が高いだろう。

  • 仕事に関する知識を増やすための本を開く。

これは時間より、とにかく本を開くだけでよい。お勉強と思うだけで気が進まなくなってしまう私。とりあえず、本を開くことを習慣づけたい。3回に一回ぐらいはちゃんと内容にアクセスできて、1%でも知識が増えたら儲けものだ。

  • Canvaの起動

将来の覇権をとりそうなクラウドサービス。これに親しんで、使い方を血肉化させたら、今の生業の寿命が確実に延びる。PhotoshopやIllustratorの深いところは、もう諦めているけれども、基本的にユーザーフレンドリーに作られているCanvaの方がかけた時間に対して、広がる知識の総量がかなり広そうだ。

  • 詰め将棋

これは趣味だけど、やればいいのはわかっているのに、謎の心理障壁があるプラクティス。一日一問でも一年で、この定番ハンドブックを習得できる。この二冊を身体化させたら、3級はいけるそうなので、とりあえず5級を目指す礎としてやりたい。これはトイレに設置して、用をたす度に一問解くというのはどうだろうw

それ以外にもいろいろ考えてみたい。一年後にこのエントリを読み返して、塵積作戦をやって良かったと思えるようにしたいもの😀

進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む

生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性をあきらめず
与えられた才能や日々の仕事に努力しつづけることです。

このブログの副題にもしている「You play with the cards you’re dealt… Whatever that means.」と伏流する意味は同じ。人間の能力には驚くほど差がある。努力しても3%ぐらいは近づけるかもしれないけれど、10%は無理ってことは多い。それをたくさん知ることが馬齢を重ねることの唯一の強みだ。

だけど手持ちの能力で出来そうなことさえ放棄するのは勿体ない。もっとも手持ちの能力を全開させられるかどうかも、ある種の才能の一つかもしれない。ややこしいけれど。それでも100%は無理にしても、手持ちの能力で足りるはずなら50%を超えられるぐらいならできる。できないと思い込んでいても、必要に迫られたらできる。

もともとないものを引き出そうと努力する人はいる。だけど概ね三十路頃には見極めがつく。見極めがついたあと、手持ちの能力で可能な努力をする人は、そんなに不幸にはならない。自分の身の程を知る経験がない人、身の程を知るのが怖くて努力を全否定する人もいる。本当に不幸な人とはそういう人だ。

自己憐憫が趣味の人

いつものメンヘラ批判です。

自己憐憫が趣味の人は少なくない。ブログ等にネガティブなことばかり書いている人メンヘラは多い。僕もネットの黎明期から長年にわたり、自己憐憫を下地にしたネガティブなテキストをさんざん書きなぐってきた。今でも日々の不安を書いて心を癒やしているが、以前は自虐的で、そこに何らかの美意識さえ見いだしていた(黒歴史だ)

自虐ニヒリズム的な美意識はだいたい「中二病」で片付けられる。現代は、精神の成熟が社会全体で遅れる傾向が顕著であり、思春期を通り過ぎて青年期に至るまで、ニヒリズム嗜癖から抜けられない人が多い。別に抜ける必要は無いという考えもある。

とはいえ、自己憐憫を怒りに変換させて周囲の人を不快にさせるのはダメだ。いうまでもないけれど、こういう基本的な倫理について考えが及ばない人はいずれ、社会生活において、しっぺ返しを喰らって、結局自分を傷つけるという事実に結局はたどり着く。

ただし、社会から孤立している人はそれに気づかない。引きこもり・ニート等は自虐を拗らせた怒りが日常になってしまい、それが歪なアイデンティティを構築していることさえある。私が長年ココで婉曲的に批判してきた友人の元細君なんて典型だ。それ以外にもネットで怒ることを趣味にしている人たちって、そういう人たちなのだろうと推察している(おそらく間違ってはいまい)

少々飛躍するが、僕が二十代にエヴァンゲリオンに耽溺したのと、この自己憐憫・自虐趣味とは無関係ではない。碇シンジ君はまさに中二の14歳だったし、作品自体がニヒリズム的美学に覆われていた。文学のテーマにもなっているし、必ずしも全面否定すべきことではない。アイデンティティ確立のための通過儀式の側面もあるだろう。

ただ、いい年した中年がここから抜け出すことができないのは、やっぱりアカン。社会に迷惑をかけるだけのマゾヒズムだ。

活力が萎えるからこそ希望を明文化する

「健康で仕事が失速しなければいい」と志少なく年初の希望としてしまったけど・・・

しかし、「そういうときこそ、希望・欲望・目標を明文化して目につくところに貼っておけ」と教えられて、なるほどと思った。人は希望や欲望がないと、一歩も進めない、現状維持や劣化を防ぐだけで良いなどと考えていると、確実に転げ落ちていく。。確かにそうだ。

宝くじだって買わなきゃ絶対に当たらない(確率論的には買っても当たらないけどね)将来に辿り着きたいことがあるなら、文章にしたり、イメージを明確に持つことが必要だ。何も欲望しないのに幸福が舞い込んでくるほど世の中は優しくない。

たくさん書く方がいいらしい。二つ三つに絞ると、あれもダメ、これもダメと逆に落ち込んでしまう。到達困難度を度外視して、無理筋な希望から、その気になればすぐに実現できることも、同列に列記すれば、一つや二つは必ず具現化する。複数の些末な具現化が合体すると、少し難易度の高い希望・目標にも多少は近づく。これは「意志があるところに道が開かれる」という名言にもつながりそうなメソッドだ。

「つまらなさや、抑うつを感じていると悟った瞬間に、スクワットを10回する」こういう簡易なことを習慣づけたある人、だんだん体調が良くなり、自重トレーニングのバリエーションが増えて、体調が良くなり、体重も減ったという。← このエピソードに感心して私も半月ほどやっている(体調が良くなった気がしないでもないw)

参考文献

尊敬している人が「超実用的な自己啓発本の白眉」と書いていたので信頼して読んでみたら目から鱗が落ちるの連続でした。

内なる敵こそが

人は怒りにまかせた暴力や口撃で訴えれば訴えるほど、ますます真実から遠ざかってゆくのです。なぜなら、外なる仮想の敵と闘っていると、内なる敵を忘却してしまうからです。

サイコパスやメンヘラって常に仮想の敵と闘っている。「仮想ではなく実体がある」という場合でも遙か過去のことだったり、脳内でこねくり回された原形を留めていない他者であることがほとんどだ。

もっとタチが悪いのは内なる敵に本当は気づいているのに、それと対峙したくないから、意思の力で無理して怒って、誰かを糾弾している輩

以上、今年最初のメンヘラ批判でした😓

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