例1:「AなのはBだからである」⇒「なぜBなのか」⇒「それはCだからである」⇒「なぜCなのか」⇒「それはAだからである」
例2:神の言葉であるものは真である。聖書に書かれているのは神の言葉である。聖書が神の言葉であることは聖書に書かれている。ゆえに,聖書が神の言葉であるのは真である
循環論法とは、ある命題の証明において、その命題を仮定した議論を用いること。証明すべき結論を前提として用いる論法。
メンヘラの理屈はキモチワルイぐらいの比率でこれが多い。証明すべき命題 が、問題を論じる前提のひとつとして使われている。
極端に短くすれば、以下のような屁理屈だ。
「オレはオレや!!他の人とちゃうんや!」
自分の結論の無謬を病的に信じているので、自信満々に循環論法の駄文を書き殴ってしまう。前提と結論が同じなのに書いている本人は気づかない。
もっといえば循環論法的・同語反復的なのが病の症状そのものなのであって、思考回路が閉鎖系にて延々と流転し続ける。思考世界が閉じているからこそ、彼らは同じ理屈、同じ物語に固執する。固着化した言葉の檻から抜け出せない。己の理屈が受け入れられないのは、世間の方が間違っているからだと憤怒し続ける。
アインシュタイン曰く「狂気とは即ち、同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること」まさに至言である。