愚者の理屈

ほぼ20年前に黎明期のネット上に当時の趣味であったサラブレッドの血統理論についての検証サイトを作った。
サラブレッド血統理論研究所
そこで理論の妥当性は何によって担保されるかということを生まれて初めて考えた。そして一応大学で習ったはずであった「演繹〔induction〕」と「帰納〔deduction〕」という二つの大枠があることを再認識した。

【帰納】〔induction〕 個々の特殊な事実や命題の集まりからそこに共通する性質や関係を取り出し、一般的な命題や法則を導き出すこと。⇔演繹
【演繹】〔deduction〕 諸前提から論理の規則にしたがって必然的に結論を導き出すこと。普通、一般的原理から特殊な原理や事実を導くことをいう。演繹的推理。⇔帰納

俗流の血統理論と世界的な血統論者の理論の導き方には明確に違いがあった。前者はデータを集めて傾向を算出して理路の体系化を目指していた、後者は生物学的に証明された事実のみで理路を組み立てていた。20年経って、前者の帰納的手法のみに依拠した自称理論は消えた。後者は一ミリも疑われず提唱されたことが前提として扱われるようになった。

当時の二大俗流血統理論である、IK理論(五十嵐・久米理論)は占い、中島理論は衒学である。というのが私の結論だった。学術的な正当性のない俗流理論は血統理論に限らず帰納法のみで雑に語られた占い・衒学にすぎない。この論理の精緻性に配慮のない屁理屈を「愚者の理屈」と私は結論づけた。

上記のようなことを思い出したのは、下記の本を読んだからだ。

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

最初はAI社会に対応する教育のあり方について書かれた本なのかとおもった。実際は数学者による人工知能の定義から始まり、知性の定義について、厳密かつ極めて平明な日本語で記述した読者の思考の濁りをクリアにしてくれる名著だった。これを読んだ後に難しくて放り投げた人工知能関連の積ん読を再読したら、サラサラ読めてビックリした。

コンピュータがどんなに進化しても、数式で表せないことは数式がない以上計算できない、故にシンギュラリティは起こりえないと明確に書いてある。そして安易にシンギュラリティの恐怖を煽るのは知性の欠如だと断言している。断言の魔力には注意しないといけないが、数学者の断言は説得力がまるで違う。

演繹法とは「人は必ず死ぬ」という前提から「私は必ず死ぬ」という解を導き出す。帰納法は「AさんもBさんもCさんも死んだ」故に「私は必ず死ぬ」という理路を辿る。死という解なら帰納法のみで思考しても解にゆらぎは生じない。しかし命題のレイヤーが少し下がると帰納法オンリーの思考は途端に瑕疵だらけになってしまう。

ただ演繹法は厳密すぎるがゆえに、有象無象の世界社会を理解するための手段としては可動性に欠ける。そこで帰納的視点で社会をみるために有用なのが「確率」と「統計」だ。確率と統計は数式によって表すことができる。そこで帰納的手法によって立てられた仮説を確率と統計によってある程度は演繹的にも考察できるようになった。ある程度というのがくせ者で程度の低い社会学者等はこのあたりを本当に判っていない。

レベルの低い話

帰納的思考しかできない人たちは多い。さらに、それ以前の論理性のカケラもない論考らしきテキストが、ネットには掃いて捨てるほどある。「AはAなのである。たとえてみるとAはAだからだ。要するにAはAなのだ。」まったくぜんぜん何もいっていない。このレベルが非常に多い(特にメンヘラ系)、メンヘラ系が特に愚者の温床になっているのは、「感情ありき」ではじめるからだ。感情で始まり感情で文章を締めるのはポエムであって理屈ではない。