追悼文向きの美徳

私は最近よく考えることがある。
人間の美徳には大きく分けて二つの種類があるのではないかということだ。
一つは履歴書向きの美徳
もう一つは追悼文向きの美徳

by デイヴィッド・ブルックス

履歴書向きの美徳、これは学生までの美徳。追悼文向きの美徳、これは社会に出てから死ぬまで規範とする美徳だ。いい歳したオッサンが履歴書向きの美徳にこだわっているのはみっともない。

私は履歴書向きの美徳に執着がない。過去はすべて終わったことだと思っている。もっとも人生において得たものに胸を張れるものがないというのが、その理由かもしれないが。

今の私が消えても追悼文には、あまり書かれるであろう言葉がない。せいぜい「ネットを経由して日本中の消費者に印刷サービスを提供し続けることに半生を捧げた」ぐらいだろうか。これだって十分誇るべきだとは思う。それでも数人でいいから、いや、一人でいいから、心のこもった追悼文を書いてくれる人がいるかといえば、いない。

自分のメンタルの機嫌ばかりとって、他者に自己の存在を捧げることを怠ってきたからだ。仕事でも趣味でも他者の心に届く深度で行動しなければ、生まれてきた意味がない。己の存在が僅かでも、自己を超えた大きな目的のために存在していると感じられる瞬間を一秒でも増やしたい。そんな殊勝なことを考えている大晦日。