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感情と倫理

「電車内ベビーカー」問題は、子育てへの理解不足が原因ではないと思う件(ふじいりょう) - 個人 - Yahoo!ニュース

最近の社会論争には構造的問題がある。このベビーカー問題はその絶好のサンプルだ。

過密状態の通勤列車にベビーカーが乗り込んできても全く不快にならない人は少ないとおもう。でもそれは物理的制約のあるところに面積所有率が高いものが割り込んでくることに関する生理的な嫌悪でしかない。ただでさえ狭くて苦しいおもいをしているのに、さらに苦しくさせられる要因に人は寛容ではいられない。別にベビーカーではなくて浴衣を羽織った力士が乗ってきても同様に感じるはずだ。

不快感は脊髄反射的である。不快だと感じたことを「実は不快ではなかった」というのは欺瞞に過ぎない。問題はその脊髄反射感情と倫理的に「ベビーカーで満員電車に乗らざるを得ない女性」を社会として許容するかどうかは、別の問題とまではいわないけれども、明らかにレイヤーが違うということだ。

感情的に許せないことは倫理的にも許されないことだという考えの人も多くいる。だけれども、感情的には嫌だけれども、倫理的には同情すべきだと自分の感情を恥じる人もいる。倫理が内面化していて、真っ先にベビーカーで乗らざるを得ない人に最初に憐れみを感じる人もいるだろう。

僕の個人的意見だが、現代社会の健全性を一番大きく毀損しているのは「感情的に許せないことは倫理的にも許されないことだ」という信念を持つ人が増えている、もしくはそういう人たちの声が拡大されがちな世の中の雰囲気だとおもう。

公共の場がプライベートの場と同様に心地よい空間であるべきだというのは、それが日本の社会道徳の高さにつながっている点は認めるにせよ、少しいきすぎではないだろうか。公共の場がある程度不快なのは当たり前だ、そういう諦観が常識になれば、過剰にベビーカーに憤慨する人の数も減るだろう。