倫理的に正しくなろうとすることと、他者を信頼できるようになることは、まったく違う。こんな当たり前のことについて、改めて考え込んでしまった。
この数年「倫理的に正しくなりたい」そういう気持ちが肥大化した。なにも誇れるものがないのであるならば、せめて正しい人になりたいという細やかな欲望だ。
倫理的に正しくなりたいのであれば、倫理的に正しくない人に対しても寛容でなくてはならない、こういう難問を避けて通ることはできない。しかし、倫理的に正しいという概念は「倫理的に正しくない人たち」の存在によって担保されている。悪がなければ善も存在しないみたいな原初的な問題。
「非倫理的な人に寛容でありつつ高度に倫理的にありたい」この願望はそもそも矛盾ではないのか。悪を許すことが正義の担保にはならないことは幼稚園児でも理解できる。そうでなければアンパンマンや戦隊ものに感情移入はできない。
ガンジーやマザーテレサのように、非倫理に対して闘うことで倫理を貫徹する聖人もいる。凡人には困難な道ではあるが、目先の損得を超越して善なる人になりたいという願望は、凡人が聖域に入ることを許されるための唯一パスポートなのだ。
欠点の多いキリスト教倫理ではあるが、この問題に関してだけは非常に高みに達している。善を貫くことが本当に困難だからこそ、イエスの受難は説得力があるのだ。ここから捻れて非常な害悪を世界にまき散らすことになるのは皮肉だが、キリスト教倫理における「聖なるもの」に対する厳しさこそ、西欧社会の美意識の根源であることは間違いない。
僕は弱く愚かなので「聖なる人」になれる可能性は閉ざされている。しかし倫理的に外れることは自己存在の立ち位置を危うくしてしまう。脆弱な社会性しか持たない人間にとって、自分は倫理的に正しい側にいるという自己意識は救いだからだ。
- 作者: H.S.クシュナー,Harold S. Kushner,斎藤武
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