天空団地_404

You play with the cards you’re dealt… Whatever that means.

拘束の対価

私のような生き方だと、休みより仕事のある日の方が精神的に楽だ。

集中してやるべきことがある。それをやれば誰かのニーズを満たし一部が利益として戻ってくる。これほど明白にやるべきこととベネフィットが一直線に繋がっていることは他にはない。それに仕事というのは当然得意なことであり、それをこなしていれば充足感も得られる。

休日の方が平日よりも遥かに楽しく気持ちが盛り上がって当然なのだろうか。そこまでアクティブに休日を過ごせている人が多数だとは私の主観ではとても思えない。ほとんどの人たちにとって「拘束されないという解放感」こそが休日の喜びのメインディッシュである様な気がする。すくなくとも会社員時代の私はそうだった。

よくいわれることだけれども仕事の報酬というのは「拘束されることの対価ではない」という常識がある。しかし、深いところでは判っていても気分的には「拘束されているからこそ給料をもらえている」と感じている人たちは相当数いるだろう。特に日本人にこの傾向が強いという記載もよく目にする。

最初に入った大企業での給料は「拘束されることの対価」にほぼ等しかった。だからこそ、外回りの空いた時間にサボることに強い罪悪感を抱いた。転職するにつれ、特に一人で働くようになってからは、仕事は発生させた利益の対価という真っ当な感覚が身についた。とはいえ、現状でさえ拘束感が皆無だとは思えない。しかし、拘束感があるからこその開放の喜びなので、別にそこから完全に自由になりたいとは思わない。

少し飛躍するけれども、今後AIの普及により「拘束の対価で給料がもらえる仕事」というのは加速度的に減っていくだろう。総需要の減少以上の速さで労働力人口が減っていくといわれているが、おそらく減った分はAIが補えるだけ補い、人手が不可欠な職業に多くの人たちが移動することになると思われる。座して終日エクセルのセルに数字を打ち込んでいくような仕事は価値が下がる一方だし、定型の人事・経理等の事務を処理するAIタイプのプログラムの普及が加速度的に進んでいる。
AI(人工知能)が人事部と経理部から人間を駆逐する日はいつか?

私の属する業界でも、定型のDTPデザインはAIがやってしまうようになりそうだ。商用デザインの型というのは決まっているし、レイアウトの法則も数値化できる。コピーライティングさえAIがシミュレートするそうだ。そう考えるとサイトの刷新が終わったとしても、長期のトレンドではいつまでも今のワークフローにしがみついてメシが喰えるかどうかは微妙である(-_-;

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青空

私のカラオケの定番(過去形)

90年代は人付き合いといえばカラオケであり、社会人である以上は参加せざるを得なかった。大学時代に「音楽的才能の無さ」に打ちのめされた私はカラオケといえども己の身を使って音楽を表現したくなかった。しかし、参加した以上、一曲も歌わないわけにはいけないので、この歌を唄った。洋楽ばかり聴いていたので、音源で持っていたのはブルーハーツとブームと長渕剛だけだった。ブームはどの曲も唄うのが難しい。長渕剛は90年代に入ると「痛い」存在として認識されていたので、歌えるような雰囲気ではなかった。それで残ったブルーハーツの曲の中から歌いやすくて、素朴に名曲だと思っているこの曲が定番になった。

歌詞は人種差別について書かれている。バスのくだりはアメリカの公民権運動をざっと学べば何を唄っているのかはわかるはずだ。

TRAIN-TRAIN

TRAIN-TRAIN

打撲ダイエット

1月末日腰を強打した。それ以降苦難の日々が続いている。一番辛かったときのこと思い起こせば、現状では治癒したに等しい。しかし、まだ腹筋運動がまともにできなかったり、気を許すと腰の片方に負担をかけてしまい刺すような筋肉痛が生じてしまう。4ヶ月が経過したのだから、これはもう後遺症なのだろう。これをなくすにはいわゆるリハビリをやらなければならないのだが、結局思い出したようにスクワットをするだけで、他は何もできていない。

腰の打撲に関して一つだけ慶事があった。体重が8kgも減ったのだ。自宅で働くようになった最初の3年ぐらいは抑うつがひどく、抗うつ剤だけでは希死念慮が消えないのでリスパダールという向精神薬を服用していた。この系統の薬は露骨に太る副作用があって、三年で体重が20kg以上増えた。閾値を超えると久しぶりに会った人の好感度が露骨に下がっているのが判る。

何度も書いているようにレクサプロという抗うつ剤がテキメンに効いて、うつ病はほぼ寛解した。気鬱が完全に解消したわけではないが、それは病気由来ではなく、独りで暮らし、独りで働くという特殊環境が理由だから、そこは割り切っているし、病的な抑うつと比較したら、比較にならないぐらい軽い問題だ。もっとも最近はそう思い込んでいるだけではないのか、という疑念が湧いてきたりしているのだけれども、それは別の問題である。

リスパダールを止めて、流行の糖質を意識した食生活をしたら増えた20kgのうち、10kgは比較的簡単に減らせた。問題は残りの10kgで、これが押せど引けども減らない。これは加齢による中年太りなので仕方がないと半分諦めていた。

それが腰の打撲による痛みの恩恵?で8kgも減った。あと2㎏で10年前の体重に戻れる。さらに2㎏減らせたら会社員時代のウェイトだ。滞っていた減量が再加速した理由は単純だ。それは「痛みがひどくて食欲が萎えた」からだ。苦痛の閾値が一定値を超えると食欲が極端に失せる。摂取カロリーが減って、連日痛みに耐えてしかめっ面をしていたら、そりゃ減る。爽やかな減り方ではないけども。

苦痛と引き換えに減らした体重をリバウンドさせたくない。
それなのにゴールデンウィークは連日外出して、美味いものを喰っている。
アカンではないか(-_-;

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【写真】西日本旅客鉄道資材センター

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東川崎町あたりを散策してみた。コンテナが普及するまでは港湾労働者がたくさん住んでいた場所で、山口組発祥の地でもある。横溝正史の生家もこの辺りにあったらしい。港沿いには川崎重工業の社屋と写真のJRの資材センターがある。道一本隔てるとハーバーランドだが、雰囲気の落差がスゴイ。

「ながら」を減らす。

なんにせよ「~しながら~する」は心の平穏のためには良くないらしい。

特に「食べながら何かを読む」はダメらしい。マルチタスクは美徳のように思われているが、心の安定にはマイナスが多いとのことだ。

私は食べるときは何かを読んでいないと落ち着かない。仕事中も音楽を聴いているかラジオを聞いている。それがあまりにも当たり前なので、それを止めてみるという発想がなかった。とりあえずこのエントリを無音の環境で書いている。

私のマルチタスクをしていないと落ち着かないという性癖は、考えてみると弊害ばかりだ。まずアウトプットの質が下がる。無音の環境で仕事をしたら、ケアレスミスが減るだろうし、処理速度も上がるだろう。ブログ投稿の文章のクオリティも、上がることはあっても下がることはないだろう。

インプットの質も落ちる。音楽の感動も薄まるし、映像から得られる楽しさも減じる。私が文学に親しみが薄いのと、自宅での映画鑑賞に集中できないのも、「ながら習慣」の弊害なのだろう。

そういえば最近音楽鑑賞で一番楽しいのは、バスの車中で目を閉じイヤホンから流れる音に集中しているときだったりする。先日別のエントリでも書いたけれども、自宅で観る映像コンテンツよりも、映画館で観る映画の方が確実に感動が大きいのも同じ理由だろう。

こうやって文章にしながら考えてみると、「ながら習慣」は良い側面がほとんどないと改めて気づく。おそらく単純肉体作業中のBGMぐらいにしか、メリットがデメリットを上回ることはなさそうだ。

そんなことを考えたので、しばらく「ながら習慣」を意識的に排除してみたい。

「今、ここ」に意識を集中する練習 心を強く、やわらかくする「マインドフルネス」入門

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