人は理解されないことよりも、理解したつもりになられることのほうがつらい。何もわかってないくせに、という叫びを誰もが持っている。これは、人は人のことはわかりようがないということだと思う。誰が悪いということでなく。ここに他者というものの残酷さがある。他者はまず最初に残酷として現れる。
理解してくれという傲慢
久々のメンヘラ批判です。人ってそもそも自分のことすら分かっていない。にもかかわらず、他人が理解してくれないと常に憤怒している人達がいる。これをメンヘラの第一定義にしてもいいと思うぐらいだ。
原理的に他者は理解できないのです。メンヘラはこれを理解できない。そして、自分は他者の無理解の犠牲者だと信じている。
健全な人はこの原理的な無理解を知った上で、能動的に他者を理解しようと振る舞っている。実際に理解するかどうかではない、私は貴方を理解しようとしているという態度がなによりも大切なのだ。
一方メンヘラは受動的に他者に理解されることを諦めない。そして絶望して、他者をのべつ隈無く恨む。そして孤立する。そして、脳内他者と闘っている。彼らの人生はそれだけで終わってしまう。
相互無理解を補完するために社会は発展した
お互いの内面に入り込めなくても、人は不幸にならないようになっている。社会システム・社会常識・礼儀作法・法律・規律等々。
孤立している人は、それらが社会に完備されていることに気づかない。自分の脳内だけでグルグルと答えのない他者に対して思考を永久回転させている。彼らを救うのは説教ではなく、社会に参加させることだと考える。まぁ無理なんだけれど(諦観)
