ヒトを「人間」と書くのは蓋し哲学的であって「間」つまり他者との距離感こそヒトを人間にしている。
健康状態を前提とすると、幸不幸は他者との関係によるのであって、人間関係が良好、あるいはポジティブな感情を注げる対象があれば「幸せ」である。
一方、人間関係が荒廃し他者にネガティブな感覚しか抱けないのであれば、すなわちそれが「不幸」である。不幸にしかならないのであれば孤独の方がよいというのは浅薄な人間理解であって、ポジティブな関係性が欠如すると、ヒトはネガティブな敵対心を欲してでも、他者を意識しないと「自己同一性が保てない」そういう悲しい存在なのだ。
創作物では「孤独だけど自然を愛し静かに穏やかに生きている聖人」がよく表現される。創作されるということ自体、そういうヒトは希有というか奇特な証であり、概ね現実では孤独な人は誰かを恨んでいるし、社会を嫌悪している。そして嫌悪の対象が見つからない場合は自身に批判の目を向けてしまう。
他者を否定することに罪を感じ、自己否定に走ってしまう弱者かつ善人には、幸せが訪れてほしいと願わざるを得ない。経験則でいうと、孤独でも社会との接点を失わず健気に生きていれば、多少の安らぎは保証される、その程度には世界は優しい(はずだ)
一方、自己否定に耐えられず他者を呪詛することが人格レベルで染みついてしまったヒトは、排他的な雰囲気に満ちて、社会から排斥されがちだ。自分から拒絶しながら、拒絶されたと憤っている人たち。これは視座を返れば「悪」そのものであって、弱さ故にネガティブな様々を放つのはルサンチマンとも表現される。とっくにニーチェが喝破していたことだけれども。