一枚のポスターを巡って議論が白熱している。議論が深まるにつれ抽象度が高まり最初に難癖をつけた人たちと、それに反発した人たちは、遙か後方に置き去りにされた感もある。一つの問題提起を起点に議論が深化するのはネットの良い側面だ。
外国人が感じた違和感を葵のご紋のごとく、女性弁護士がラディカルフェミニズムの立場からポスターの表現を批判したのが端緒。色々議論の切り口はあると思うけれども。「外国人」「女性」という、批判対象からは不可侵の立場で否定的言説を表明している点が一番気になる。
特定の属性、特に弱者側とされている側に当事者だけが見えている真実がある。言い換えると明察が備わっているがゆえに警告できるというスタンスだ。これは議論の仕方としては極めて筋が悪い。
遡ればニーチェが指摘したように「弱者のみが幸いであると喝破したキリスト教の欺瞞」に通じるものがある。異国人だから見える真実、女性だからこそ見える真実、こういう代替不可性をともなった弱者からの告発の呈を装った上から目線の告発は成功しない。今回の件でも反論多発で炎上してしまった。
「弱者のみに備わった明察」これは幻想であるし、ここから始まる学問は間違った土台の上に構築されている。学問が目指す真理は万人にとっての真理でなければ意味がない。特定のレイヤーにだけ有効な真理は真理ではなくイデオロギーである。
極論して明解にいえば「オマエは俺ではないのだから、俺のことが分かるはずがない」と喚き散らしている愚者を想像すればよい。この言葉自体に間違っている箇所はない、しかしそれはあまりにも当たり前すぎて、わざわざそれを強弁すると、それを嘯いた輩は視野狭窄で自分のことしか考えていないバカにしか見えない。
ラディカルフェミニズムの言説も構造的にはまったく同じなのだ。この構造的欺瞞を指摘されたラディカルフェミニズム一派は前世紀にほぼ論破されて、学問扱いされなくなっている。昨今では、構造自体に瑕疵がある社会学の小数クラスタが思慮の浅い発言をしてTwitterで炎上するぐらい関の山だ。
昨今のネット炎上案件の大半を占める言説には「弱者ポジションを利用したマウンティング」という共通項がある。いちいち反応しないでスルーするのが精神衛生上はよい。憤って反論すれば「弱者ポジションを利用したマウンティング」をしている点において同類ゆえに、鏡に向かって議論しているような空しい結末に帰着してしまう。
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2014/08/25
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (2件) を見る