思考は肉体の奴隷である

自分について深く考えなくなったせいか、ブログに記載するテキストが脳裏に浮かばなくなった。内省を繰り返した結果、「思考は肉体の奴隷である」ことを悟ったからだ。

愛情・金銭・名誉に恵まれていなくても体調さえ良ければOK、さらにいえば、体調が良いという自意識は肉体の健全さよりも「神経細胞に負の信号が流れていない」ことから生じることが判った。レクサプロの服用を止めて2ヶ月でうつ病が再発した。不快感が強い日は決まって朝のお茶と共に流し込む鎮痛剤を服用していない。ジムに通っていたときは明らかに精神が健やかだった。

私は肉体そのものであって、苦痛は肉体から物理的にしか生じない。思考の歪みや過去のトラウマが不幸の原因だという事実はどこにもなく、そのようなネガティブな思念が脳裏を過るときは概して体調が芳しくないのだ。

「肉体は思考に先んじる」これは医学でも心理学でも哲学でも仏教においても語られている。これほど汎用性の広いテーゼは他にはない。強い不安を感じたとき、抑うつを感じたとき、さらにいえば怒りや劣等感を感じたときさえ、「真に苦悩を感じているのは、どこなのか」と内省すると「神経とその処理センターである脳」という唯脳論に行き着いてしまう。

こういう考え方が内面化すると、自分の苦痛に関してテキストで書き綴る意欲と意味が希薄になる。うつ病をこじらせて心神喪失になった過去でさえ「脳の状態が極めて悪かった、要するに器質に問題がある疾患だった」と結論づけてかまわないと思えてくる。精神状態の悪化の起因となった「悪いあの人、悪い会社、悪い社会」といった因果論で思考することが限りなく無意味に思えてくる。原因は器質であって起因となった事象と混同すべきではない。

肉体を切り離して思考内で因果論をクダクダ考えるのは、肉体が若く健康であるが故に思念だけが自分であるという間違った自己認識の果てにねつ造された虚像について思考するに等しい。老いて肉体が劣化すると虚像と実像の乖離が顕わになってくる。老いが苦痛と直結したとき、健康だったときの苦悩を人はリアルに追憶できるだろうか?

苦悩と苦痛の間に境界線を引くことが出来る知性を私は持ち合わせていない。出来ないことを考えても空しいだけだ。今後、私は苦悩に関してテキストを綴ることはないだろう。

今日の窓外
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