夢想が絶望を育てる

一般に劣等感の強い人ほど「完璧」を夢想する傾向がある。作家志望の人は芥川賞を ミュージシャンは武道館を夢想する。骨と皮しか無いようなガリガリの拒食症女性は痩せさえすればモテると思い込んでいる。

学生時代に語学をマスターできなくて、社会人になってから語学スクールに通うような人は、英語を日常的に使える自分を妄想しがちだ。実際は単語を一つ覚えるのだって、言い回しを一つ覚えるのだって、相応の努力が必要なのに、遙か彼方が目の前にあるような錯覚に囚われて自分を見失っている。

三十路をすぎてから、それを職業にもしていないのに、他者を圧倒できるような能力を獲得できると考えるのは、冷静に考えれば相当おかしいと誰でも客観的には理解できる。しかし自分の虚像を欲望すると超主観状態に陥って冷静な判断ができなくなる。

などと上から目線で書いている私こそが、実現不可能な己の虚像に振り回され続けた大馬鹿野郎なのだ。実際は挫折ばかりの人生なのに、ありもしない自分の可能性に賭けて散財を繰り返しながら馬齢を重ねた。遺憾という言葉しか見つからない。

未来は日常の延長線上にしかない。天災や政治無策によって悪くなる可能性があっても、よくなる可能性は万に一つもない。宝くじの一等に当たる確率は二千万分の一だ。

では人生には絶望しかないのかといえばそうでもない。美味いものを食べたとき、ひと風呂浴びたとき、ゲームに夢中になっているとき、小さな自尊心が満たされたとき、暖かい布団にくるまれて眠っているとき等々、小さくて細やかな幸せは、そこらに転がっている。それらの一つ一つを愛おしむように味わえば、人生もそんなに悪くない。

無意味な夢想に囚われて、妄念と現実の落差に絶望する暇があるのなら、とりあえず晩ご飯の準備に集中した方がよい。人生死ぬまで「今」が積み重なるだけなのだから。