コミュニケーションと運動
手垢がついた考え方だけれども、またしても常識がなにゆえ常識なのかが、やっと分かってきた。自分に足りないのはその二つだ。
必須なのは親密さを競うようなコミュニケーションではない。事務的であっても相互敬意が根底にあれば十分だ。運動も同様で、毎朝早起きしてジョギングするレベルが必要なわけではない。数十分散歩するだけで足りる。その程度さえ足りなかったのが問題だった。
二日に一度は20分以上歩く
半月に一度はリアルで人と言葉を交わす場に出かける。
この程度のことをやってこなかっただけなのに、なにか特有の宿痾を背負った悲劇の主人公のつもりでいた。人生に疑義を唱えるには、最低限の運動とコミュニケーションを得てからでないと、それはワガママにすぎない。
基本的なことに関して、最低限を満たしていない。あれやこれや人生に文句をつけるまえに、まずは普通の生き方に追いつかねばならない。普通でないことにアイデンティティーを委ねるのは地獄への近道。そんなことを悟った。半世紀生きてやっと、、