人は誰しも多かれ少なかれ「自分には他者には理解できない真理が見えている」という己の明察力を根拠なく信じているところがある。この根拠のない自信は生きていくためにはある程度は必要だ。しかし、己の明察力を疑う謙虚さを忘れると単に「困った人」でしかなくなるという落とし穴がある。
根拠のない自信こそが創造力の源泉であり、上手くこの自信を使いこなすことは人生に良い影響を与える。ただこの思い込みを盲信している人たちが怒りの感情と遭遇したときが怖い。その弊害を増幅させるのがネットの匿名性だ。
自信満々で自己言説の無謬を疑わない人は嵌まると他者に凄まじい影響力を及ぼす。ネット世界で時として炎上しながらも一方で信奉者を多く抱える著名人は多くがこのカテゴリーに属する人たちだ。無根拠である証に言説を掘り下げていると必ず理屈が同語反復で循環している底に突き当たる。同語反復でしか根拠を示すことが出来ない価値体系をイデオロギーという。
イデオロギーが根底にある言説は必ず敵を生み、強い共感と強い憎しみを同時に発生させる。自己の明察性への疑義を自分で発議できるかどうかは、価値観が循環する場所を自覚できるかどうかにかかっている。その知性に欠けた人たちが巻き起こす論争とは距離を置いた方が精神衛生上、明らかによいということは最近腑に落ちた重要な智慧の一つだ。もっともその「腑」というもの同語反復の場所であることには変わりがないので、ここでも傲慢にならないようにすべきだとも考えている。
一方でそれを意識しすぎると「何も意見をいえなくなる」という問題が別に生じる。言説の誤謬に神経質になりすぎてニヒリズムに陥っても、当人に虚しさが残るだけで、社会において「何も意見がない人」という立場に甘んじなければならなくなってしまう。明察性への疑義という担保を保ちながら、それでも意見をいうのは難しい。結果的に一周して単なる勧善懲悪に価値観が帰結して、「振り出しに戻る」みたい流れになりやすい。
だが同じ主張を口に出したとしても、浅薄な明察過信からくる言葉と、一周回って同じ場所に戻ってきた人の吐く言葉の重みは明らかに違う。おそらく社会論争のレイヤーというのは、その有無によって階層化されるのであろう。同じ対象を糾弾しているにしても、その根拠に厚みがあるかないかの差異こそが、単なる言い争いに終わるのか、良き結論を導き出す建設的な議論になるかの分水嶺になるのだ。