不快と不幸は同じだ。「脳が快くない」という信号を受信している点でまったく同じだ。痛覚を感じるのも、刺激を受けた体の箇所ではなく最終的には脳である。不快を感じるのはすべて脳の仕事なのだ。
物理的に何も変化がないのに痛く感じたりする神経性疼痛と同様、この瞬間において、生きることに関して問題がないのに、過去の不幸を引っ張り出して、今ここで不快になることも疼痛の一つだと考えると、不幸という概念も底が浅く思えてくる。
肉体の一部が毀損していようとも、過去に壮絶な不幸を体験したとしても、今この瞬間、脳がそれを不快だと感じないのであれば、不幸はどこにもない。
不快を感じる脳の動きをマヒさせるのが麻薬だ。不快の感受性を鈍くさせるがダウナー系、快感物質ですべてを上書きしてしまうのがアッパー系、思考回路を混乱させて不快感を誤魔化すのが幻惑系だ。
上記のような物質的・唯物的考え方に徹すると、「過去の経験」「過去のトラウマ」「親や教師に恵まれなかった」等の理由をいつまでも脳内で反芻してグダグダ悩むことは非効率の極みだという理路もみえてくる。
過去の僕も含めての話なのだが、メンヘラーというのは今の不幸・不快と過去を因果関係で結ぶことに異常に拘る。その必死さこそが正に精神病理そのものなのだが、それこそが不幸の原因だと割り切ることは弱者には困難だ。精神が病んでいるという病識があってさえ、不幸の原因を探さずにはいられない心の脆弱性には勝てない。
不快と不幸から逃れるために必要なのは、過去の清算ではなく、意趣返しでもない。いまここで稼働している脳神経に「心地よさ」の情報をおくる手段を得ることだ。それ以外にやりようがない。だからといって麻薬に手を染めることはもちろん社会的にアウトだ。しかし、肉体に適切な負荷をかけたり、眼前のテキスト・画像・動画、耳に飛び込んでくる音楽を心地よいものにすることによって、不快を快感に書き換えることは、そんなに難しいことではない。結局、我々ができることは、それだけなのだ。