若かった頃、無根拠に自分はある種の明察を他者より持っていると信じていた。無根拠なのに信じてしまう愚かさ。この愚かさを自覚するのに恐ろしい時間がかかり、深層心理から払拭するのにさらに多くの時間がかかった。
しかし、完全に自己の無根拠なる明察性への意思が失われると、本当に何もいえなくなってしまう。すべての言葉に「私はこう思った」という前提がつくことになる。
そうなると「私のことなど私以外にとってはどうでもいい」という当たり前が心を蝕み、さらに言葉が貧困になり、ついには沈黙してしまうことになる。
明察性皆無の人間が他者と再会したとき、近況報告をした後に話すことがあるのかどうか。内面になんら確信の持てない人間に関心を持つ人はいるのか。いない気がする、なによりも私自身が、己の明察性に自信を持ち合わせていない人とは関わりたくないからだ。でもその頑なな人間観も何を根拠にそう思い込んでいるのかと問われると、さらに自分に対する疑心が深まる。自己不信さえ不信という無限。