わかりました あきらめましょう。

私は進歩しない 旅をするのだ

「生産性」という呪縛

私たちの多くは、
自分の価値を「生産性」ではかろうとする傾向があります。

現代資本主義世界に生きる私たちは、如何に自分がそういった価値観から無縁だと思っいてもなお「生産性が高いのはよいことだ」という呪縛から完全に自由にはなれない。

おもえば私の気鬱の3割ぐらいは「日々生産性の低い生き方をしている」という劣等感から生じている。常にやるべきことが半分もできず、やらなくてもよいこと、何をやったのか覚えていないことに人生の多くを費やしている。この今でさえ、やるべきことをやらずに一円にもならない駄文を綴っている。

忙しくて文字通り心をなくして何かに取り組んだとき、忙しさの辛さをこえて何かとても充実した気分になる。こういった思考というか感情回路があまりにも自明となっているので、そのことについて疑問をもったりしない。

現世において「生産性の高い状態」であり続ければ、少なくとも誰からも後ろ指を指されたりはしない。もちろんAにたいして生産性が高いが故にBの生産性が下がっているという状態を想定できるにせよだ。そういう場合は、さらにAに対する生産性を上げてBに関与すればよい。そうすれば批判される理由がなくなる。

日本人は長く働くわりに生産性が低いというニュースが大きな話題になった。話題になるぐらい我々は生産性を上げることを無条件に正しいと信じている。雰囲気的には「生産性を上げるために生産性を上げなくてはならない」というトートロジーの陥穽に嵌まっているようにもみえる。

生産性を高めたと自負して満足したいだけなのと、生産性を高めた結果として人生をより良くするというのは、似て非なるものだ。真の意味の生産性と、自己満足のための生産性は、字面は一緒だけれども中身は相当ちがっていそうだ。場合によっては真逆かもしれない。

意図的に無意識化している「生産性」という呪縛から自由になろうとする試みには価値がある。特に組織に属せずに働いている我々のような人種には、「生産性」に絡め取られない価値観を世に問う責務が与えられている気がする。

生産性

生産性