わかりました あきらめましょう。

Everyone's a winner and nothing left to lose

不快感を言語で装飾しない

他者との摩擦が閾値を超えると憂うつになる。そうなったときに更に闇に堕ちていくのを防ぐ方法がある。脳内でその他者に対して論争をしかけないことだ。摩擦熱で脳内に言葉が溢れると意識は高揚する。しかし私の場合はその反作用がすぐに生じて、あっという間に無気力モードに陥ってしまう。自分が生成した言葉に呪いをかけられてしまうのだ。

一方、高揚モードが持続して失速しない人もいる。そういう人たちは高揚感に煽られて言葉を機関銃のように打ってくる。防戦一方の私、以前なら理屈で反論していたけれども、経験則でそうなると人間関係が破綻しやすい。だからすぐに白旗を上げるようにしている。

ただ白旗を上げて言えなかった言葉が脳内に残留していると、それが精神を蝕む。脳内で反芻したらモンスターに育つし、文字に変換してみても、当事者が読まないのだから虚しさだけが積もってしまう。

結局、他者との軋轢が生じたときに、それを脳内で解消しようとするネガティブワードの生成自体が害悪なのだ。建設的な意見の交換のために溢れる言葉を紳士的に交換できるのであれば、そこに問題は何も無い。むしろ好ましい。だけど現実の世界にそういった紳士協定を前提としたコミュニケーションの場が普遍的にあるのかというと、甚だ怪しい。

不快感から生じる言葉は「防御」のためのツールでしかなく、論理的正しさは二の次になる。言語化された不快感は不快な文字列に過ぎない。理屈ではそうだけれども、言葉という盾を持たないようにするのは(特にそれが習慣になっている人にとっては)極めて難しい。しかしこれを克服しないと、私は今後も対人摩擦から逃げ回り、ずっと一人で働く以外の選択肢がなくなってしまう。それならそれでよいという考え方もある。しかし、諦めないで克服した方が人生の可能性は開ける。・・・そう言葉で考えている。。