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わかりました あきらめましょう。

年寄りが泣いている 子どもたちが怯えている

何故死んだあとのことが気になるのだろう

「葬式に誰も来なくなるよ」

この匿名ブログの内容とはあまり関係のない内容です。

「過去と未来について無駄な思考をしない」というのが近年の私的な決まりだ。それでも「今のまま死んだら、葬式に確実に来る友人は一人もいないな」とか「祖母の葬式にさえ行かなかったのだから、親戚さえこないだろうな」とのおもいが頭をよぎることがある。

死んでしまえば無に帰るのだから、こんなこと「考えるだけ無駄」の典型思考だ。にもかかわらず無に帰した後の体面に拘るというのは何故なのだろう。老人が属するコミュニティに前向きに関わる理由の一つに「葬式に来てくれる員数を確保する」という動機もあるらしい。

僕のように独りでいることを基本的に好む人間でさえ、死後の体面を気にしている。なら普段多くの人と関わっていながら生きている人たちにとって「葬式にきてくれる人の数」は結構リアルな不安なのだとおもう。

同じような不安で僕にとってより深刻なのは「孤独死して誰にも気づかれず、腐敗臭で人に迷惑をかける」だ。葬式に来てくれる人の数についての不安は、平均値より低いかもしれないが、こちらの恐怖はしばしば頭をよぎってしばらく留まる。

これらの不安は本能に由来するものなのだろうか、それとも後天的に形成されるものなのだろうか疑問だ。後者だとは思う一方、存外本能に組み込まれた何かであるような気もする。猫は死期を悟ると姿を消す、22年生きた実家の愛猫も危篤時に死力を尽くして外に出ようとしていた。本能に組み込まれているとしたら、死後物体となって腐敗した時に、周囲の同族に迷惑をかけるので、それを忌避する意味で、そうなっている。そんな仮説を立ててみた。

人が死後、弔われるのは人が人たる由縁の一つだが、「弔う」という行為にはなにか根源的な人の不安に結びついていて、それが文明を推し進める推進力の一つになったと考える。宗教施設以外の遺跡は多くが墳墓だ、ピラミッドとか前方後円墳等など・・・ 死後の不安に囚われたくはないけれども、せめてまともに弔われて無に帰せるようにはなりたいものだ。

孤独死のリアル (講談社現代新書)

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