わかりました あきらめましょう。

私は進歩しない 旅をするのだ

私憤と社会正義の溝

この度の騒動で嫌な思いをされた全ての方に心よりお詫び申し上げます。 : 長谷川豊 公式コラム 『本気論 本音論』

この期に及んで、あくまでも「間違ったタイトル」と「全文を読んだ上で文脈を解釈しない愚民ども」が悪いと信じているようだ。今さら、長谷川氏のパーソナリティについて論じても仕方がないが、私憤と社会正義を直結させる思考回路に引っかかりがあるので、そのことについて書いてみたい。

体験に基づく感情、とくに負の感情をどう処理するかというのは品性に直結する。10人の患者がいて、そのうち9人が羊のように従順に治療を受けていたとしても、1人の横暴で品格のない患者に遭遇してしまうと、発生する感情の9割はその1人にフォーカスしてしまう。人は本能的に(身を守るために)負の感情を処理することに思考が集中する、そのように出来ている。

現場の仕事のメインは(医療現場にかかわらず)多数派の人たちに対するものであるのは当たり前、そして少数派への対処も独立した任務であり、それはそれとして当然、仕事として処理する。現場とはそういうものだ。
一方、ジャーナリストの仕事は、多数に埋もれた一部の悪の糾弾にある。しかし、それが諸問題の原因であるかのように短絡してしまっては、現場の人からみれば思慮が浅薄としか思われないだろう。

社会問題の原因に特定の悪人がいるという考え方は普通に世の中に転がっている。すべての問題の原因は悪人の存在に起因するという素朴な因果論。これって悪人存在の有無よりも問題だ。この考え方の延長線上には「悪人を排除すれば社会正義が実現する」という考えに繋がる。長谷川豊氏の問題とまったく同じ。

「悪の原因があればそれを排除すれば良い」「悪は隠れているから、それを見つけて告発するのは絶対正義だ」こういった考え方は一見まったく正しく見える。

「自堕落な生活の果てに公金を湯水のように費消する一部の糖尿病患者は悪に決まっているという」理屈に反論するのは難しい。しかしだからといって悪人の告発者を正義の具現者として祭り上げてはならない。過去を遡れば悪の告発の名の下に、どれだけ凄惨なことが繰り返し行われたかは歴史書を読めば枚挙に暇がない。悪とは相対的な概念に過ぎないからだ。

悪を糾弾することに血眼になっている人たちというのは、いつの時代でも、どの場所でもたくさんいる。しかし、私憤を社会正義と直結させてドヤ顔している人たちが、本当に社会正義の実現に一役を担っているかといえば、長谷川豊氏の炎上にみられるように懐疑的にならざるを得ない。

悪を糾弾したはずの長谷川氏が悪人として多くの仕事を失った事実が我々に示唆していることは多い。安易に悪を糾弾する人は、糾弾される側と常に背中合わせだ。私憤の正義を信じて疑わない人たちというのは「疑わない」時点でイデオロギー化して危ない。イデオロギーの根拠は掘り下げると、どこかで必ず同語反復になる。いかなるイデオロギーも状況次第で悪に変貌するのは歴史が教えるところだ。

私憤と社会正義の実現を直結回路してしまう浅はかさは、ネトウヨ・極左市民団体の愚かさとよく似ている。そしてこの愚かさが世界規模で瀰漫しているように感じる。(移民排斥とかトランプ支持とか)個人的には「憤り」をエネルギーに動く人たちや社会風潮に距離をおきたいと考えている。それは決してニヒリズムではなく、地に足をつけて真の社会正義の礎を築く人たちの一員になるための参加資格なのだ。