私は努力コンプレックスである。目標に向かって努力したのは大学受験にまで遡らなければ記憶にない。以降、「努力できない自分」をどれだけ呪詛してきたことだろうか。
それでは私は「努力に値することを、まったくやってこなかったのか」というとそうでもない。ルーチンワークを10年近く続けてもいるのも努力といえば努力だ。生活崩壊しないように日々、掃除洗濯ごはん炊きを真面目にやっているのも努力といえないこともない。職能に関する技術も日々蓄積されているし、他人様にアドバイスできる程度にはなっている。この日々の蓄積も努力といえるだろう。
考え方次第なのだ。「強い意志を持ってやりたくないことを継続的にやって結果成長する」これしか努力として認識していなかったのだ。この定義だと私には努力をする資質がない。僕だけではなく世にあまたいる「努力が嫌い」の人もこの思い込みのピットフォールに陥っているような気がする。
「やりたくないことを継続的にやる」というのは普通に考えたら出来ない。だって「やりたくない」のだから。しかし、やりたいことをやってもそれを「努力」としてカウントしないのであれば、「努力≒できないこと」が成り立ってしまう。
思うに「努力家」というは「やりたくないことをやれるM器質の人」ではない。そうではなくて「世間の多数派がやりたくないことを、やりたいことに変換できる人、結果的に世間で賞賛される人」なのだろう。
間違った定義が染みついた「努力」という言葉に拘泥している限り、ずっと努力コンプレックスに苦しむことになる。出来もしない努力という言葉に翻弄されるぐらいなら、この概念を捨ててしまった方がよい。