読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

わかりました あきらめましょう。

私は進歩しない 旅をするのだ

過去の行為は悪手なのか

過去の行為を後悔するとき、私たちは、現在なら過去よりもずっと正しい判断ができると素朴に思っている。加齢に伴い肉体は衰えても、思考力・判断力は経験値が上がっている分だけ、確実にレベルアップしていると信じている。それは、ほんとうなのか・・・

今なら過去の帰結を知っているから、そのときの行為を批判できる。でもそれは結末を知っているというアドバンスがあるだけで、現在の賢明さの証にはならない。若さ故に貫徹できる行為・決断だってある。気力体力が萎えた今ではむしろ及び腰になってしまうことだって多々あるだろう。

過去の自分を思い出していたたまれなくなることは多い。でもそれを「今の俺よりも劣っている過去の俺」という視点で断罪するのはいかがなものか。今と過去は状況も時代背景も、なによりも本人の肉体の質が違う。

今の知性で若いときにタイムスリップしたらという妄想はよくする。だけど知性と肉体は不可分なので、現在の知性が若い肉体にインストールされたとき、知性がそのままであるという仮定には無理がある。

年齢を重ねるメリットとして、若いときよりも適切な行動をとれるようになることを誰もが期待する。しかし実際は、膨れあがった「失敗のデータベース」を参照しリスクのある行動を忌避する頻度が上がるだけだ。ローリスクな選択を繰り返し行っているだけの現状を過剰評価しても意味がない。単に保守的な人・守りに入った人と蔑まされるだけだ。

知性を持って行動している以上、自我が芽生えたときから、我々は常に行動を最適化しようとしているはずだ。現在から見て如何に情けない行為に及んだ過去があったとしても、その時はそれが最適解だったのだ。どのような齢においても、その時に意識して悪手を選ぶ人間はいない。それなのに過去の行為や判断・選択を過剰に断罪して後悔するのは意味がない。さらにいえば、現在をそういった過去の間違った結末として捉えることが、不幸そのものではないかとさえおもう。