わかりました あきらめましょう。

私は進歩しない 旅をするのだ

戦略的諦観の敗北

ブログタイトルの「わかりました あきらめましょう」の元ネタはこのネタ画像です。
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「あきらめる(諦める)」は語源からいうと「明らかにして執着から離れる」という仏教的なニュアンスが由来らしいです。「物事の本質を知れば煩悩から距離を置ける」そういう意味です。

苦悩というのは「肉体的な苦痛」と「過去の原因によって現在の惨状がある」という被害者的マインドセットのことです。後者の心の有り様が人間にとって大きな害悪であるというのは、大学時代のニーチェ理解が僕の源流です。ニーチェキリスト教を断罪する一方、仏教には好意的でした。これは因果への執着批判とニーチェルサンチマン批判は、伏流している問題が同質だからです。

上記の考え方がずっと根底にあったので、僕は「怒る人」とりわけ「誰かを深く憎む人」を病的に嫌うようになりました。しかし、脆弱な精神しか持たない僕にとって、誰も憎まないというのは困難であり、それなのに無理に心の有り様を抑圧した故に、アイデンティティを脆弱にしてしまうという、困ったピットフォールに陥ってしまいました。

そして、「憎まない人・怒らない人」になるためのショートカットとして、「憎むような人・怒りの対象になるような人」から逃げるという帰結になってしまって、それは要するに孤独を選んだということです。

そんな経緯で僕は「戦略的諦観」路線を生きてきました。そして、この路線を進みながらニヒリズムに陥らないようにするのは難しいというか、結論的には無理でした。あの聡明なニーチェでさえ晩年は発狂してしまったのですから、凡人の僕がまともにいられるはずがありません。それでもなんとか生きているのは、馬鹿ゆえに、思想的に不徹底だったからに過ぎません。

この人を見よ (新潮文庫)

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