知識ではなく教養というものが、信念の安定性に寄与するのではないかと思う。教養とは面白がった体験であって。必死に覚えた退屈な知識は揺らいで崩れるけれど、何かに面白がった体験は誰にも否定できない。
昭和の教養とは単に「広範な知識の量」と同義だった。しかし今では知識自体はネットで検索すれば瞬時に表記される。平成以降の教養は、ニッチな世界の知識を楽しげに話せて聞き手を引きつける知のチカラであるようだ。
英語を流暢に話せてもそれだけで教養があるとは昨今は見なされない。多少拙くても外人とニッチな世界について楽しく話せる人こそ「英語の教養がある」という認められるのだろう。
さてそうなると僕の教養は・・・