わかりました あきらめましょう。

私は進歩しない 旅をするのだ

表象としての孤独と暇

孤独と暇が問題になったのは45年の人生の中でほんのこの2,3年だ。それまでは逆に真剣に孤独と暇を欲していた。過ぎたるは及ばざるがごとし、過剰に手に入れた反動で、逆のものを欲している。人間はワガママだ。

孤独ぐらいで人間は壊れたりしない、すくなくとも僕は壊れない。しかし、嫌いな人と関わる苦しみは地獄だ。嫌いな人を嫌うあまり孤独を欲していたのは事実。しかし実際に孤独になると、心を病む人間関係から逃げ出したかっただけで、孤独を欲していたのではないという事実に不惑にして気がついた。 対人ストレスの対立項は孤独ではなかったのだ。あらためて考えると当たり前なのだけれども。

あと孤独と暇は別概念ではなく、孤独から生じる心の隙間を「暇」と名付けているようだと思い至った。暇だと感じていないときは孤独も感じないからだ。表裏一体の関係で有り孤独≒暇なのだろう。

孤独と暇を友としながら、まがりなりにも経済的に自立しているというのは、よく考えたら奇跡に近いのかもしれない。基本的に経済的に自立するためには人と関わることによって社会的富を創り出さないとお金が貰えない。ネットと電話で間接的に繋がるだけで所得が得られる現状は、人類700万年の歴史の中でも今の時代にしか成立しない奇事だ。僕のDNAが現状に対応できないのも仕方がない。それが表象として現れているのが孤独と暇ということなのだろう。ええ