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汎用的弱者としての僕


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(2013/02/15)
神木隆之介橋本愛

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この映画から連想して書く。

校内ヒエラルキーの描写がメインのメタ視点作品だ。
近年屈指の邦画という評判はその通りだと思った。

批評はネット中に転がっているので自分に関連づけて気づいたことのみを書く。

それは、高校時代に自分が校内ヒエラルキーの最下層にいたというシンプルな事実だ。
そしてその事実を全く認識していなかった。

ここで根付いた「心の癖」が現在まで僕を呪縛している。

この映画にて神木隆之介が演じる映画部の前田は
自分の世界に没頭して外部の人間模様が錯綜するセカイから疎外されている。

ここが肝心なところだが、彼は疎外されて現実逃避しているのだが
逃避事実は既に問題ではなく意識化もされていない。
既に人格に織り込まれているのだ。

桐島の不在に動揺するカースト上位集団とその埒外にいる映画部部員たち。
彼らが下位なのは見る人すべてによって識別できる。
その識別力の汎用性と比べて、下位的存在であることへの
自己認識力の低さをこの作品は冷徹に哀れみをもって描いている。

そして、僕はこの齢になって漸くこのことを認められるようになった。
20年は遅いと思うが・・ というか遅すぎた。

なんでこの恐るべき遅延が生じたのかというと
自己否定を意識化するには、いくつもの阻害要因があったからだ。

それは・・・自己分析を一度始めると本一冊分になるし
そこまで己の内面を晒す勇気が持てないので今は書かない。

すっ飛ばして・・
人は一人では生きていけないので
集団内で生きていくための仕組みが遺伝子に刻まれている。
下位にポジショニングされた個体の振る舞い方も、ある程度は本能が示してくれる。
しかしそれにはあまり下方耐性がない。
なぜなら、己という存在はその個体に至るまでの生命の受け渡し作業では
生き残ってきた(勝ち続けた)個体が自分に他ならないからだ。
それは生命の始祖からずっと続いている数十億年の果てに「居る」のだ。
だから完全な下位的存在として順応することは、生命の本質からいって背理になる。

だからカーストの下位に位置づけられたと本能が察しても
察したそれ自身がそれを認めようとしないという葛藤が生じてしまう。
そこから生まれる自我を蝕む齟齬を覆い隠すために
表層的な理性だけで構築された脆い寓話に自我のすべてを託す必要性が生じた。

その寓話を担ったのが「神」であったのが近代までの人類の歴史だ。
しかし情報化が著しく進んだ現代では「脆い寓話」が量産されたため
逆転が生じて脆い寓話が弱い人を逆に育むようになってしまった。

僕はそういう汎用的弱者の一人に過ぎなかったのだ。

ちなみに映画では前田はその事実に気づいてコトバにしてしまう。
そのシーンは鳥肌が立った。よくできた映画は恐ろしい。