天空団地_404

You play with the cards you’re dealt… Whatever that means.

メンヘラ・因果・相関

心を病んでいる人は因果関係と相関関係の区別ができない。あまりにも原因を求めすぎるので、因果関係と疑似相関を混濁してしまう。陰謀論界隈の気持ちの悪さの原因はコレだ。不快な事象・時事問題の原因に「ディープステート」を当てはめると、スッキリと説明できてしまう。社会問題の全ては複雑系で単一の原因で全てを説明することは無理だ。しかし、心を病むと、この「無理さ」に我慢が出来なくなってしまう。

国家権力を操る力は沢山ある。アメリカなら巨大産業はだいたい必然的に政治に影響力を持つ。軍事産業がその筆頭だし、医療産業だってそうだ。IT産業も然りである。日本政治だって自民党の政策が国民より経団連や日本医師会の意向に沿ったものであるのも客観的事実だ。

これは大きな経済と多くの人が関わる産業・業界に、政治を動かす力があるという当たり前の事実に過ぎない。政治は塊としての人々の支持がないと成り行かないから、別に見えないディープステートみたいな闇の組織をつくるまでも無く、影響力を持つのは必然の帰着である。

別にコロナワクチンに隠された意図があり、悪意を誰かが指令しているのではない。政治に大きな影響を「必然的にもつ」人々の塊の功利主義の影響が有象無象に世に反映されているに過ぎない。

世には悪意の主体があって、それが世界を動かしているというのは思慮浅薄の思考であって、プーチンとか金正恩とか悪の主体的な個はいるかもしれないが、それは痛々しいほど表出している。表出しない悪意の主体なんて原理的に存在しない。心を病んだ人の「悪には主体があって欲しい」というのは単なる願望に過ぎない。

雨音に埋もれて将棋を指しつつ寝落ち

一番聞いている音源

このところ就寝時にはこの雨音をずっと聞いている。寝落ち用の雨音動画は、掃いて捨てるほどYoutubeに転がっているが、なぜかこれが飛び抜けて気に入っている。この音以上に聞いていて心が安まる音はない。これを流しながら、寝落ち将棋ウォーズ(音無)を指すようになって、不眠で明るくなるまで目が覚めているってことがなくなった。これはこれで一つの究極の音楽であるような気がする。
youtu.be
2時間から4時間雨音が続くだけの動画のカウンターがどれも500万以上回っている。これって最初だけ広告を入れてあとは無しにすれば、多少はカネにならないだろうか、もうすぐ評判のデジタル録音機が届くので、せっかく収益化したチャンネルなのだから、寝落ち用の類似動画を作ってみたい。

以下、無駄にダラダラと書いたので、読まなくていいです(>_<)

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「公正世界仮説」と「不公正世界仮説」

https://dot.asahi.com/articles/-/213287?page=2

僕が一番に浮かぶのは、「公正世界仮説」という考え方です。
割と知られている社会心理学用語ですが、ご存知ですか?
ざっくりと説明すれば、「この世界は公正である」という思い込みです。

世界は公正・公平だから、良いことをした人には良いことがある、悪いことをした人には悪いことがある、それがこの世界のルールだ、という信念です。 子供の頃に接するおとぎ話や童話は、ほとんどが「公正世界仮説」を私達に根付かせる物語です。悪い奴はこらしめられ、善人は最後に救われて、がんばれば願いはかなう。私達の心には、「世界は公正・公平である」という思い込みがしっかりと根付いているのです。「公正世界仮説」を強く信じている人が「世界は公正じゃない」という現実に直面した時にどう感じると思いますか?その現実を受け入れてしまうと、「世界は公正じゃない」という事実を認めてしまうことになります。そうすると、その人の「公正世界仮説」は崩れます。

しかし、「公正世界仮説」を信じることは、前向きに生きることです。私達は「公正世界仮説」によって、努力すればうまくいく、がんばれば報われる、良い行いには良い結果がついてくると信じられるからこそ、毎日、歯を食いしばって前向きに生きていけるのです。

だって、「努力しても結果は分からない」とか「良い行いをしても悪い結果になることもある」なんて思っていたら、なかなか、がんばれません。
「公正世界仮説」を信じることは、毎日を安心して生きる方法なのです。
ですから、多くの人は自分の信じているを守ろうとします。

思うに私の倫理観も「公正世界仮説」をベースにしているのは認めざるを得ない。ただずっとシニカルで、「世界はとても公正だとはいえないけど、それでも手持ちの能力で折り合いをつけて、得られるものの可能性を無くす愚だけは避けた方が楽だ」という折衷案みたいなものにおちついている。

それでもこの仮説を信仰した方が良いとは思う。反転した「不公正世界仮説」が正しいなら、生きる理由はなく、最適解は直ぐに首を吊るのが正しくなってしまう。それに「基本的に世界は公正だ」という考えがベースにある人と、その逆の人を想起したら、どちらを友人にしたいかと問われれば、答えはいうまでもない。

ただリンク先にもあるように、「公正世界仮説」を仮説に過ぎないと一歩引いて謙虚にならずに真理だと思い込んでしまうと、どうしても「被害者にも一定の非があるに違いない」という、特に近年のネット社会に瀰漫する「間違った義憤」の発生源になってしまう。仮説を真理と思い込むとベクトルが真逆でも、どちらも社会悪になる(極左と極右とか)

しかし、仮説が二つあるなら、どちらを採用する方が、自分自身が楽になれるか、世の中の善の総量が増えるかを考えて、副作用に自覚しながら「公正世界仮説」を選ぶべきだ。弊害があるにしても、「不公正世界仮説」がマジョリティの社会よりはずっとマシだ。

雑な考察ですいません(>_<)


AI お題:世界の善意に感謝を捧げる少年少女達。

進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む

生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性をあきらめず
与えられた才能や日々の仕事に努力しつづけることです。

このブログの副題にもしている「You play with the cards you’re dealt… Whatever that means.」と伏流する意味は同じ。人間の能力には驚くほど差がある。努力しても3%ぐらいは近づけるかもしれないけれど、10%は無理ってことは多い。それをたくさん知ることが馬齢を重ねることの唯一の強みだ。

だけど手持ちの能力で出来そうなことさえ放棄するのは勿体ない。もっとも手持ちの能力を全開させられるかどうかも、ある種の才能の一つかもしれない。ややこしいけれど。それでも100%は無理にしても、手持ちの能力で足りるはずなら50%を超えられるぐらいならできる。できないと思い込んでいても、必要に迫られたらできる。

もともとないものを引き出そうと努力する人はいる。だけど概ね三十路頃には見極めがつく。見極めがついたあと、手持ちの能力で可能な努力をする人は、そんなに不幸にはならない。自分の身の程を知る経験がない人、身の程を知るのが怖くて努力を全否定する人もいる。本当に不幸な人とはそういう人だ。

将棋と競馬徒然

観る将

甥っ子と同じ顔をしている推しの藤井八冠がいつも勝つので安心してみていられる。昔の巨人ファンみたいな心理なのかな。昨日は王将戦とNHK杯の両方を満喫した。指す方は相変わらず6級なのだけれども、それで自分でも指すとプロの凄さがよくわかる。

将棋ウォーズ

すいません、未だに6級です。寝床で眠くなるまで指し続けるという習慣が勝率を押し下げている。そりゃ睡魔を待つ脳の状態では勝てないのは必然かも。それでも終盤までは相手が5級ぐらいまでなら、評価値で言えば1000点ぐらい勝てているのに、あいも変わらずの終盤力の弱さで、時間切れで負けてしまう。

とにかく終盤の勉強と思っているのだけれども、終盤の概念を知る本ももちろん役に立つけれども、やはり詰め将棋の数をこなさないといけない。でも、なんか詰め将棋ってあまり好きでないんですね。なんか楽しむというよりお勉強という感じになってしまうからなのか。

馬券

12月下旬から一つも当たりません😅 基本の買い方は軸一頭の相手5頭の三連複10点各100円、配当をみてガミりそうな買い目は増額して、配当が高くても、一番自信がある組み合わせも増額して1レース1,500円固定で買っている(G1と好きなレースは増額することも)

軸が当たったら3着に変なのが突っ込んでくる。自信を持って切った人気馬が勝ちきってしまう。この悲惨パターンが毎週繰り返される。そして、よせば良いのに固いと思ったら、同じ金額(1,500円)で三連単を買ってしまう。そうすると概ね三連複にすれば良かったという結果になる(昨日の東海Sとか)

1レース基本1,500円ルールは精神衛生上よい。外してもギリギリあの特有の負けたときのイヤな感じが生じない。10点買うと大抵200倍以上の組み合わせも生じるので、10回に一回当たればペイするのだけれども、結局は長期でみても控除率以上負けていて回収率が昨年は69%しかなかった。それでも予想は楽しい。外れても苦笑いする額に抑えるのが、競馬を長く楽しむコツです。

生成AI(将棋を理解せずチェスを出しちゃうところがお茶目です)by chat GPT

自己憐憫が趣味の人

いつものメンヘラ批判です。

自己憐憫が趣味の人は少なくない。ブログ等にネガティブなことばかり書いている人メンヘラは多い。僕もネットの黎明期から長年にわたり、自己憐憫を下地にしたネガティブなテキストをさんざん書きなぐってきた。今でも日々の不安を書いて心を癒やしているが、以前は自虐的で、そこに何らかの美意識さえ見いだしていた(黒歴史だ)

自虐ニヒリズム的な美意識はだいたい「中二病」で片付けられる。現代は、精神の成熟が社会全体で遅れる傾向が顕著であり、思春期を通り過ぎて青年期に至るまで、ニヒリズム嗜癖から抜けられない人が多い。別に抜ける必要は無いという考えもある。

とはいえ、自己憐憫を怒りに変換させて周囲の人を不快にさせるのはダメだ。いうまでもないけれど、こういう基本的な倫理について考えが及ばない人はいずれ、社会生活において、しっぺ返しを喰らって、結局自分を傷つけるという事実に結局はたどり着く。

ただし、社会から孤立している人はそれに気づかない。引きこもり・ニート等は自虐を拗らせた怒りが日常になってしまい、それが歪なアイデンティティを構築していることさえある。私が長年ココで婉曲的に批判してきた友人の元細君なんて典型だ。それ以外にもネットで怒ることを趣味にしている人たちって、そういう人たちなのだろうと推察している(おそらく間違ってはいまい)

少々飛躍するが、僕が二十代にエヴァンゲリオンに耽溺したのと、この自己憐憫・自虐趣味とは無関係ではない。碇シンジ君はまさに中二の14歳だったし、作品自体がニヒリズム的美学に覆われていた。文学のテーマにもなっているし、必ずしも全面否定すべきことではない。アイデンティティ確立のための通過儀式の側面もあるだろう。

ただ、いい年した中年がここから抜け出すことができないのは、やっぱりアカン。社会に迷惑をかけるだけのマゾヒズムだ。