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わかりました あきらめましょう。

私は進歩しない 旅をするのだ

映画 夜は短し歩けよ乙女の感想

映画『夜は短し歩けよ乙女』公式サイト

非常によくできた映画だ。しかし、期待したのとはだいぶ違った。大傑作「四畳半神話大系」と同じスタッフで作られたのだから、同じ様なノリだと勝手に思い込んでいた。原作の森見登美彦による同じ世界観を共有する兄弟作だから、もっと似ても良かったはずだ。

一番違うのは主人公の星野源が声を担当した「先輩」のモノローグを物語の中心に据えていない点だ。これは意識的にそうしたのだろう。四畳半神話大系と同じ作りにすると、超絶嵌まり役だった浅沼晋太郎と比較して星野源の拙さが目立ってしまう、それを避けたかったのだろう。いくらマルチな才能を誇る星野源だって声優の嵌まり役とガチンコで比べられたら分が悪い。

結果、語り部が不在気味で、黒髪の乙女の奇行と異常な世界観を体験する作品になっている。ヒロインにもう少し可愛らしさというかコケティッシュさがあればもう一押し作品世界が広まったと思う。個人的には花澤香菜のボイスに魅力を感じない、もっと適役がみつけられたのにとさえ思う。

なんか文字にしたら批判的になってしまったが、瑕疵のない作品ではある。テンポも非常に良く独特の映像世界に引き込まれているうちにあっという間に終わってしまった。大傑作とはいえないが傑作には違いない。もっとも森見登美彦ワールドに免疫がない、星野源目当ての女性客の頭上に「?」マークが浮かんでいたこともまた事実である。

厄日

ユニクロで買い足した靴下とトランクスをファーストフード店に置き忘れた。取りに戻ったら消えていた。総額1500円ちょっとなので、それ以上探す気力もなく諦めて帰宅。
帰宅後、PCの電源を入れたら無反応、コンセントを差し直したり、ネットで調べて放電してみたりしたけど直らない。電源が死んだようだ。サブPCがあるからなんとかなるけれども、ついていない。

また足を滑らせて腰を再度、痛めたりしたら生きる気力がなくなるので、今日は大人しく時間が過ぎるのを待ちたい。

買い換えに選んだ電源

静音に定評がある電源の中でAmazonで買える一番安いのにした。

眠られぬ夜に

深夜にブログを書くのは珍しい。昼食後に適当に書き殴ることがほとんどだ。うつ病寛解してからは不眠症とは縁が切れている。それでも月に一度は眠れない夜がある。理由はわからない、不意にやってくる。

寝床で活字を読めば普段は睡魔がくる。しかし、今宵のように何故かこないことがある。でも活字を追う気力は切れている。タブレットに手が伸びるが、あれは入眠を妨げる。仕方がないから音楽を流しながらボンヤリしている。それでも眠くならないので、こうやって珍しく夜間にブログを書いてみたりする。

書きたいことが思いつかない・・・ 過去について考えないようにしているし、愚痴も精神を汚染するだけなので自制している。でもその二つの禁忌をつくると書くことが激減する。いちおうメンヘラー系ブログなのに、この二つのトピックを自重すると、書くことが本当に見つからない。

腰の状態

完治してない。4月に入ったら腰が気になっても「治癒した」ことにしてしまおうと目論んだ。痛みというのは病識からも発生するからだ。とはいえ腰に疲労が極端に溜まりやすくなったのと、横になったとき寝返りが困難なので、まだまだだ。「治りきっていない」のではなく、「後遺症」だったら嫌だな・・・

今年は開花が遅い。桜花賞の時の桜の状態で早いか遅いか判断している。このところずっと桜花賞の時には「散りそめ」か、さらにその先だった。しかし、ことしは当日になんとか満開になるかどうかという感じなので、明らかに遅い。というかここ数年がずっと早すぎた気もする。二昔前は「入学式」の頃に満開になるのが普通だった。桜の咲く時期を気にするようになった事実に、自分の加齢を感じたりもする。若いときはいつ咲こうがまったく興味がなかった。

新しい哲学を求めて

ずっと大学時代に心酔したニーチェを基盤に、様々な思想を表層的につまみ食いしてきた。ここ10年ぐらいはそこに東洋思想とアドラー心理学を足した感じで完結している。そこに固着しているのが良くない気がしている。

もう一つ、まったく違う哲学の足場が欲しい。たぶんそれは人文学的なものではなく、サイエンスの系譜にある何かであるような予感がある。これから新しい智慧との邂逅が期待できるかどうか、微妙なところではあるけれども。


・・・睡魔がやっと訪れたようだ。寝よう(-_-)゚zzz…

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

手間暇と利益

昨日は特異的に忙しく昼飯を食べる暇さえなかった。一転して今日はスカスカだ。受注商売なのでその日その日の仕事がどうなるかは、その日になるまでわからない。時期的な繁忙の波は経験則で大枠は読めるが、一日単位ではわからない。

印刷業は特にそうだけど、手間暇と利益が相関しない。やたらと校了・下版まで手間がかかったのに利益がわずかなときがある一方、右から左にデータを流すだけで大きな売上が発生する仕事がある。100枚の名刺と10万枚のチラシは、現場の労力は当然違うが、私のデータをチェックして次の担当に渡すまでの手間は基本的には同じだ。むしろ小ロットの注文の方が発注者の経験値が低いことが多いので、手間と利益は概ね反比例してしまう。

以前はその相関性の無さに苛ついたこともあった。しかし、最近は自信のないお客様のデータ作成に協力して、無事納品して喜ばれたときの心地よさの方も好きだったりする。弊社はAppleのワープロソフトPagesでデータを作成する人をSEO的にターゲットにしているのだが、Pagesユーザーというのは本当に善良で品のよい人ばかりだ。マックユーザーでなおかつpagesを使いこなそうとする方は概ね良心的な世界に生きている。Macを日常的に使うだけの金銭的余裕があって、さらに手持ちのソフトウェアで何とかしようというプリコラージュ能力に長けているのだから、知的で洗練されたイメージがある。

とはいえ、完璧なデータで金額が見込める冊子の注文が来たときは素朴に「ラッキー」と喜んでしまう。データチェックに手間がかからないわりに受注単価の高いポスターの仕事も嬉しい(当たり前)。

孤独と脆弱

孤独は心も体も弱くする。今回の腰部打撲の治癒を遅く感じるのは、単に老いて代謝が悪いことだけが理由ではない。基本的に一人で働き・生活をしているので意識が己の感覚に過敏になっているという理由も大きい。

他者との生のコミュニケーションを通じて日々を過ごしているのであれば、ここまで体調や気分に振り回されないはずだ。実務に取りかかっているか、読むか聞くか観る以外のスキマに、痛みや抑うつといったマイナスの感覚が極めて浸食しやすい。もっと日常生活に他者が介在していれば、そこまで自分の感覚に対峙する必要は生じない。

仕事が忙しいときは体調不良を忘れる感覚は以前よりあったし、実家で両親と食事をして時間を過ごすときも、痛みや憂うつな気持ちで自分を暗くすることはない。孤独のスキマに心や肉体の脆弱さが極めて染みこみやすいのだろう。

孤独を切に求めた会社員時代が長すぎたため、孤独のスキマの危うさに気がつかなかった。なんでも度を過ぎるとよくないという当たり前の結論になってしまう。孤独だからゆえに、自分の体やメンタルの弱さを過大に評価してしまう。その過大さや頑なさが本当なのかどうかは、環境を変えてみないとわからない。だから変化を求めずに愚痴ばかりで自分を傷つけるのは非生産的だとおもう。