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更に馬鹿になった

ひとりごと music

もともと聡明さに欠ける私だが、怪我を機に更に知能指数が下がった気がする。実行するしないは別として、脳内に様々な計画というか妄想が膨れあがるタイプだったのに、ふと気がつくと「何も考えずに時間だけが過ぎていたことに気がつく」瞬間が激増した。

ネットや書籍で刺激的な文章と出会っても、そこから派生して色々考える力がひどく衰えた。準備中のビジネスサイトのリニューアルに関しても、なんのアイデアも脳内に生じない。

こんなことは、違法になる前の某化学物質をオーバードースして、死にそうな思いをして以来だ。肉体を毀損すると思考を抑制するような仕組みが脳に備わっているのかもしれない。そしてそれが長引いたら、基本ベースで劣化が起きてそこで固着してしまうのかも・・・

そういえば老人は、老いても聡明で論理的に話せる人と、老いが知的活動を著しく阻害しているのが痛々しく伝わってくる人の差異が著しい。反発力の無い小学生のような思考しかできない老いた人はいたるところに居る。老化に負けたのか、単調な日々が思考力を錆び付かせたのか、両方だろう。

もはや他人様から敬意を得たい気持ちは萎え萎えだけれども、仙人のように、老いても知的な存在でありたいという願望は強いワタシ。座して治癒を目指すより、これを機会にリハビリや新しいスポーツをはじめたりして、怪我前より肉体的に強靱になり、脳の若さも保ちたいものだ。ほんと

馬鹿になったのに


大昔にバイト先の有線で聞いて一度で好きになった曲。サビの部分の中毒性はかなりのもんです。

Flowers In The Dirt

music

フラワーズ・イン・ザ・ダート[スペシャル・エディション](2CD)

フラワーズ・イン・ザ・ダート[スペシャル・エディション](2CD)

リマスター+デモの一連のリイシューシリーズ最新盤がこれ。今回からシングル収録曲・リミックスバージョンがダウンロードのみとなったので一部のファンが憤怒している。ただ邪推されているような理由ではなく、このアルバムから4枚もシングルカットしたり、12インチアナログ等で別バージョンを乱発しまくったので、CDに収録すると収拾がつかなくなるという物理的な理由なんじゃないかなぁ。

ともあれ傑作だ。過去のスーパースターではなく現役ミュージシャンの最新作という感覚で発売されたアルバムとしてはこれがラストだろう(ポールは微塵もそう思っていないだろうが)商業的に大失敗した前作「Press To Play」から巻き返しの意味を込めて、気合いが入りまくっている。全体を仕切ったプロデューサーはいなくて、いろんな人が入り乱れて作られたわりに、音の感触に統一感があるのが良い。甘く緊張感が途切れがちなソロポールの欠点を、エルヴィス・コステロとの共同作業で見事に押さえつけて、辛口で締まった作風に変質させることに成功したのが名盤になった理由だろう。

弥生雑記

ひとりごと photo

痛んだ腰が中途半端によくなって、持病の背中の疼痛とつらさのレベルが均衡してきた。こうなると「どちらも辛くて相乗効果でさらに辛い」という嫌な状況に陥った。一箇所がひどく悪いと他の辛さは上書きされてしまうのだけれども、複数箇所が同程度に悪いと辛さが二乗されるという最悪の状態になる。

加えて春の抑うつと軽い花粉症も加算されて昨日と一昨日は青息吐息だった。鎮痛剤を服用するしか術がないのもアレなので、カラダ全体を休ませるために、軽い断食をしている。その効果かプラセボか、今日は朝から多少は気持ちが明るい。薬も数日断った方が効き目が戻るかもしれない。

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のけものはいない

アニメ

観るとIQが下がるといわれた「けものフレンズ」も残すところあと1話になりました。世界観が現れるにつれ低いIQのままでは、置いてかれそうです。サーバルちゃんがセルリアンに呑み込まれたときの絶望感は、だれもが心の奥底に沈めてある琴線に触れたようです。

寂しげなかばんちゃん
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あんまり深読みしないで自然体で最終話を観てみたいです。

諸悪の半分は責任転嫁から生じる

雑感 心と体

自分と似た属性の人たちが綴るブログをRSSリーダーで定点観測している。日々自省と前向きな努力で幸せになっていく人達の生き様は参考になる。一方、どんどん病んでいって遠くに行ってしまった人もいる。

どんどん精神的に追い詰められていく人たちに一定の法則があることに気がついた。それは時を積み重ねれば積み重ねるほど、特定の誰かへの憎しみを募らせていくことだ。傾向としてその対象は圧倒的に肉親が多い、次に配偶者や別れた異性だ。

心が病んで誰かに責任を押しつけたくなる気持ちは理解出来る。しかし、「それは体の調子が悪いのであって、昔の親の態度とは関係ないでしょう」と突っ込みたくなることも多い。心にしても体にしても今の自分を作っているのは過去の誰かではなく、日々の自分の生活だという点に考えがまったく及んでいない。いや、及んでいるけれども、いざ文章に綴ろうとすると誰かへの嫌悪がメラメラと燃え上がるのかもしれない。

話が飛躍するかもしれないけれども、そういった人たちの残念さは、隣国の人たちの反日の理屈とよく似ている気がする。どこが似ているのかというと「もはや過去の事実がどうであったかよりも、『いま現在の過去によって傷つけられたという気持ち』が問題なのだ」という理屈だ、いや屁理屈だ。

二重カッコで記さなければならないような理屈をつかって、誰かを屈服させることは無理筋だ。しかし当事者にとっては、それが外部からみて二重構造になっていることに極めて気づきにくい。欺瞞というのは自覚しにくいものなのだ。

ルサンチマンに基づく他者への糾弾は、概ねこういう構造になっているので、糾弾された側にも憎悪の感情が湧いてしまう。どちらもネガティブな感情なので誰もが不愉快になる。こういう構造で生じる負の連鎖は個人レベルから国家レベルまで、人をあまねく傷つけている。安易に責任転嫁して自我を安定させようとする心の仕組みというのは、プログラムにおけるバグのようなものだ。常に意識してその弊害を被らないように自戒しなければならない。